矢沢頼康は1553年(天文22年)、矢沢頼綱の長男として生まれました。
1584(天正12)年、家康は秀吉との対立に専念するために北条氏と和議を結ぶ協議をし、この協議で沼田を北条氏に引き渡すことが条件に出てきました。
徳川と北条の国境である旧武田領の線引きについて、甲斐・信濃は徳川、上野は北条にすることを徳川・北条は取り決めたのです。
1585(天正13)年に入ると、徳川氏は1582(天正10)年に決定した北条氏との和議にあった信濃・甲斐は徳川、上野は北条のものにするという条項を実行することにしました。
家康は昌幸に上野にある沼田を北条氏に渡すように命令しました。
しかし、滋野・海野一族の時代に領地だった沼田・吾妻郡を、武田氏の時代に父幸隆が実力で勝ち取ったものだという思いから、昌幸(頼康にとって従兄弟)は家康からの命令には従わず徳川氏と絶縁することにしました。
1585(天正13)年3月14日、真田昌幸からこれまでの沼田城代として務めを父頼綱と共に評価されて、その恩賞として房山の地を与えられています。(頼幸33才)
1585(天正13)年7月、徳川氏との軍事的対立を目前して、真田氏は上杉氏と同盟を結ぶために信繁(幸村)を人質に出す事を決めました。
頼幸は上杉氏に人質として出向く信繁(幸村)に随行しました。この時、昌幸は信繁(幸村)を守らせるために、鳩・吉沢ら乗馬衆5名と林・坂本ら足軽衆12名を頼康に与えました。
第一次上田合戦の時、上杉景勝は真田氏からの支援要請に応え、頼康を真田氏のもとに帰らせています。頼康は昌幸や信之と共に徳川方と戦うか、沼田で父頼綱とともに沼田城を守りました。
関ヶ原の戦い(第二次上田合戦)以後は信之に仕えました。
大坂の役では、信之に代わって出陣した長男信吉と次男信政の後見役として随行しました。
頼幸は出陣前に信之から「何事も油断無く、肝煎り頼み入り候」と、2人へのサポートを頼まれました。
矢沢氏は頼康の後を、弟の頼邦が家督を継いでいます。
以後、矢沢氏は松代藩の筆頭家老を世襲しました。
長野県長野市松代町には矢沢氏屋敷の表門(市指定文化財)が現存していましたが、近年火災が発生し、全焼は免れたものの無惨な姿になってしまい、修復作業中の様です。
大正時代では、矢沢頼道氏が県会議員と松代町長などを務めました。
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