河原綱家の四男として生まれました。 大坂夏の陣で作兵衛が討ち死にした事により、常田氏家名存続のために河原綱家の四男である忠兵衛が常田氏を継ぎました。作兵衛の遺児が幼かったためだと思われます。
1626(寛永3)年に徳川家光が上洛した際に松代藩士も随行することになり、忠兵衛はその為の支度金の借用を藩へ申し出ました。しかしそれが認められず、怒った忠兵衛は藩士48名と共に脱藩して、保科氏の家臣となっています。