利世
プロフィール
読み仮名
りよ
生没
生年不明~1649(慶安2)年5月18日(没日は7日説も有)
出生
浅野内蔵之助(大谷吉継の妹の夫)の娘。母は不詳。
別名
竹林院(ちくりんいん)、安岐姫(あきひめ)、
法号
竹林院殿梅渓永春清大姉
移籍
大谷吉継(越前の敦賀藩5万石藩主)の養女。1594(文禄3)年、大谷氏から真田氏に嫁ぐ。
真田信繁(真田幸村)(正室として)
子供
信繁(幸村)との間に二男三女。
長男:大助(幸昌)、次男:大八(片倉守信)、四女:あぐり、六女:お菖蒲、七女:おかね
(続柄は真田信繁(幸村)からの立場。子供の出生については諸説あります。)

龍安寺大珠院(京都府)、当信寺(宮城県白石市)

備考
竹林院の名が有名ですが、これは法号であり、生前は利世を名乗ったようです。
利世は信繁(幸村)にとって最初の妻ではありませんが、嫡子を産んだ為に正室として通っています。
信繁(幸村)との結婚時期については、信繁(幸村)が九度山に幽閉される前後というのが通説です。
利世は大谷吉継の実子ではなく、親戚の娘を吉継が養子として育て、信繁(幸村)に嫁がせたという説もあります。
経歴
生まれ、真田信繁(幸村)との結婚

真田信繁(幸村)は1566(天正4)年に豊臣秀吉の下に家臣として仕えましたが、政権の中央で働くうちに、秀吉の側近だった大谷吉継と交流ができて、吉継の娘である竹林院との縁談が持ち上がり、天正の末頃から文禄の末頃(1590?~1598?)までの間に、利世は信繁(幸村)へ嫁いだと言われています。
結婚の時期は1594(文禄3)年説が有力のようです。

関ヶ原の合戦、その後、夫信繁と共に九度山へ

関ヶ原の戦いで、信繁(幸村)が父昌幸と共に西軍についたのは、竹林院の父である大谷吉継が石田三成の支援に回ったというのが、重大であったと思われます。関ヶ原の戦いの時、竹林院は上方(大坂城下)にいたようです。

関ヶ原の戦いで西軍に入った父大谷吉継は関ヶ原にて戦死しました。

1600(慶長5)年12月上旬に家康から義父昌幸と夫信繁は高野山への幽閉を命じられました。
12月13日、夫信繁(幸村)、昌幸やその2人に近い立場にあった16人の家来、自分の子供と共に利世は高野山へ向かい、利世も随行しました。

利世は九度山で信繁との間に子供を5人をもうけています。
生活費はいつも苦しい状況だったようで、利世自ら上田地方の紬技術を応用した「真田紐」を作り、家臣に行商させて家計を助けていました。

大坂の陣、そしてその後

兄の木下頼継(大谷吉継の次男)は大坂の役で豊臣方になり、大坂城に籠城しました。
1615(慶長20)年5月7日、真田信繁(幸村)など豊臣方の主力部隊は徳川方により撃破され、夫信繁や頼継は討ち死にしました。

大坂の役が終わった後、徳川氏に命じられた紀伊の領主だった浅野長晟によって捜索され、1615(慶長20)年5月20日、紀伊国伊都郡にて利世と"あぐり"が3人の侍に警護されて隠れていたところを身柄の確保をされました。その時、黄金57枚と来国俊の脇差しを持ってことが信繁の妻である事の決め手になりました。この金と短刀は長晟に恩賞として与えられました。
5月24日、京都にいる家康のもとへ身柄を送られました。

徳川氏に引き渡されましたが無罪となり、以後余生を京都で過ごしました。
七女かね夫妻とともに過ごしたか、2人から援助を受けていたと言われています。
("あぐり"と共に滝川一積のもとに身を寄せていたという説もあります。)

1649(慶安2)年5月18日、利世は京都で亡くなりました。(利世 享年不詳)
墓は京都府の竜安寺大珠院と宮城県白石市にあります。
法名は竹林院殿梅渓永春大姉です。

子供たち

長男:大介(幸昌)…大坂夏の陣で秀頼と共に切腹。
次男:大八(片倉守信)…片倉氏の養子になる。
三女:梅…伊達政宗の重臣である片倉小十郎重綱の妻
四女:あぐり…陸奥美春3万石領主である蒲生郷喜(がもうさとよし)に嫁ぐ。
六女:菖蒲…梅を頼り片倉重綱の伯母である喜多(伊達政宗の養育をした)の養女になる。
七女:かね…石川備前守光吉の妻、竜安寺塔頭の大珠院(だいじゅいん)に父信繁(幸村)の墓を建てた。
(続柄は真田信繁(幸村)から見てのもの。)

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