隆清院の父は豊臣秀次で、母は秀次の正室である一ノ台です。
豊臣秀次は1595(文禄4)年、秀吉によって自害させられました。
豊臣内部での家督争いを防ぐために、8月2日に秀吉は秀次の側室侍女34人と子供4男1女を京都三条河原で斬首しました。
この処刑から逃れることができたのは、隆清院と、同じく一ノ台が母である隆清院の姉の2人だけだったと言われています。
隆清院には秀吉からの追っ手があったはずですが、この危機を潜り抜けて育ったものと考えられます。
真田信繁(幸村)の側室になり、大坂の役が始まる前に信繁(幸村)と共に大坂城に入城しました。
1614(慶長19)年10月13日、真田信繁(幸村)は長男大助らを引き連れ大坂城に入城し、隆清院は娘の田と共に信繁に随行し大坂城に入りました。
11月に大阪冬の陣が起こり、その後和睦により収束した後もしばらくの間は大坂城で過ごしましたが、翌年の1615(慶長20)年3月に大坂城を出て京都嵯峨野にある瑞龍院(秀吉の実姉)を訪ねました。
瑞龍院には出家して日秀と言う名になっていた秀次の母親"とも"が居ました。"とも"は、隆清院にとっては義母にあたります。
この時、隆清院は2人目の子供である信繁三男幸信を身籠もっていました。
同年4月下旬、大坂夏の陣が起こりました。
5月7日、信繁は討ち死にしました。
5月8日、豊臣秀頼が大坂城で自害し、豊臣氏は滅亡しました。
大坂夏の陣が終わり、徳川方によって残党の捜索が行われ、京都の瑞龍寺に居た2人は身の危険を感じ、隆清院は姉を頼って梅小路氏に身を隠し、娘の田は町人の格好をして居場所を転々としました。
7月、隆清院は弟幸信を産みました。
お田は捕らえられて、身柄を江戸へ送られましたが、その処分は人質として大奥勤めをするというもので、比較的軽い処分になりました。
これは伯父である真田信之が幕府に掛け合ったためであると思われます。
母隆清院は梅小路氏と結婚した姉のもとで匿われていましたが、追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に潜んで、そこで左馬之佐(幸信)を産んで育てていました。
大奥に入ってから3年が過ぎた頃、お田は大奥を出ることを許されました。
お田が京のとある屋敷で給仕の仕事につくため、江戸から京へ行った時、母隆清院と再会を果たしました。
妙慶寺に隆清院の位牌もあります。 |