白石藩の片倉氏のもとで育てられた大八は、片倉久米之介守信を名乗り始め、重長所領13000石のうち1000石(360石説有り)を与えられていたようです。
1636(寛永13)年5月24日、伊達政宗が亡くなりました。(伊達政宗 享年70才)
政宗存命中に守信が仙台藩士になることはありませんでした。
伊達忠宗が2代仙台藩主になった後、1640(寛永17)年に守信は真田四郎兵衛守信(さなだ しろうひょうえ もりのぶ)を名乗り、知行300石・召出(めしいだし)二番座で初めて仙台藩士として召し出されました。
この時、守信は仙台城下の五ッ橋通りに間口40間・奥行き30間の屋敷を与えられました。
仙台藩で真田氏が藩士に採用したことを知った江戸幕府は、その真田氏の素性に神経を尖らせました。
これは、1638(寛永15)年に終息した「島原の乱」で豊臣氏の家臣だった牢人が結集し、戦力として侮れないことを幕府方に強く印象づけたため、真田氏の生き残りともなれば幕府にとって不安定要素であるとう認識が働いたようです。
1640(寛永17)年3月、豊臣残党生き残りの一斉捜索が行われ、明石全登の子である明石内記らが身柄を確保されました。
幕府の調査に対して、「真田信繁(幸村)の二男である大八は7才の時、印字打ち(石合戦)で石が当たり、守信(大八)は亡くなった。」とし、守信の素性に関しては真田信尹の子に「真田政信」という架空の人物を登場させ、その子としました。
この時、守信は真田姓から再び片倉姓に戻し、片倉沖之丞を名乗りました。
守信の肖像画で守信が着用している羽織には「結び雁金」の紋が描かれているように、守信は六文銭の家紋の使用を控えました。
1670(寛文10)年6月晦日、片倉守信が亡くなりました。(片倉守信 享年59才)
当信寺に葬られました。
墓には幕府に遠慮して六文銭ではなく一文銭が刻まれています。
守信の死後、家督は長男である片倉辰信が継ぎました。 |