1615(元和元)年7月、三好幸信は真田信繁(幸村)の三男として、京で生まれました。
母は豊臣秀吉の甥であり養子である豊臣秀次の娘「隆清院」です。
この時、すでに大坂の役で徳川方が勝利しており、父信繁は討ち死にし豊臣氏は滅亡していました。
事前に大坂城から脱出していた母と実姉である御田姫(お田の方)は、京で逃亡生活をしていました。
母隆清院は梅小路氏と結婚した姉のもとで匿われていましたが、追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に潜んで、そこで左馬之佐(幸信)を産んで育てていました。
姉である田は捕らえられて、身柄を江戸へ送られましたが、その処分は人質として大奥勤めをするというもので、比較的軽い処分になりました。
これは伯父である真田信之が幕府に掛け合ったためであると思われます。
田は大奥に入ってから3年が過ぎた頃、大奥を出ることを許され、四条のある屋敷に給仕人として入ることになりました。
姉である田が将軍の上洛でたまたま京に滞在していた岩城宣隆と出会い、そのご結婚しました。
姉が岩城氏と結婚したことで、幸信は祖父秀次の旧姓である三好を名乗り、三好左馬之助幸信として亀田藩士として360石を与えられました。
1667(寛文7)年、三好幸信が亡くなりました。(三好幸信 享年53才)
妙慶寺に葬られました。
妙慶寺には幸信の墓のほか、位牌や大小刀が残っています。 |