長男重隆の号は月峰。
弟幸信も亀田藩の家臣になりました。
1604(慶長9)年、お田は真田信繁(幸村)の五女として生まれました。その年は信繁(幸村)が高野山に幽閉されてから5年が経っていました。 母親は信繁の側室になっていた隆清院(生前の名前は不明)で、関白だった豊臣秀次の娘です。
1614(慶長19)年10月13日、真田信繁(幸村)は長男大助らを引き連れ大坂城に入城し、田も母隆清院と共に信繁に随行し大坂城に入りました。 11月に大阪冬の陣が起こり、その後和睦により収束した後もしばらくの間は大坂城で過ごしましたが、翌年の1615(慶長20)年3月に大坂城を出て京都嵯峨野にある瑞龍院を訪ねました。 瑞龍院には出家して日秀と言う名になっていた秀次の母親"とも"が居ました。 "とも"は、お田にとっては曾祖母にあたります。 この時、母隆清院は2人目の子供である信繁三男幸信を身籠もっていました。
同年4月下旬、大坂夏の陣が起こりました。 5月7日、信繁は討ち死にしました。 5月8日、豊臣秀頼が大坂城で自害し、豊臣氏は滅亡しました。
大坂夏の陣が終わり、徳川方によって残党の捜索が行われ、京都の瑞龍寺に居た2人は身の危険を感じ、お田は町人の格好をして居場所を転々とし、隆清院は姉を頼って梅小路氏に身を隠しました。 7月に弟幸信が生まれました。
お田は捕らえられて、身柄を江戸へ送られましたが、その処分は人質として大奥勤めをするというもので、比較的軽い処分になりました。 これは伯父である真田信之が幕府に掛け合ったためであると思われます。
母隆清院は梅小路氏と結婚した姉のもとで匿われていましたが、追跡の手が厳しくなったため、新たに米屋次郎兵衛という町屋に潜んで、そこで左馬之佐(幸信)を産んで育てていました。 大奥に入ってから3年が過ぎた頃、お田は大奥を出ることを許されました。 田は京都で母隆清院と再会を果たしました。 田は大奥勤めの経験を買われて、四条のある屋敷に給仕人として入ることになりました。
佐竹義宣は1626(寛永3)年6月の大御所徳川秀忠、または同年8月の将軍徳川家光の上洛に随行しましたが、弟である宣家も行動を共にし、3ヵ月近く京都にいました。 ある朝、佐竹兄弟が滞在していた屋敷で、義宣が目を覚ますと勇ましい掛け声が聞こえてきました。義宣が掛け声がしている方に行ってみると、屋敷の裏庭で大勢の下女達が長刀の稽古をしていました。そこでは、鎧兜に身を固めた一人の女性が指南をしていたのです。よく見ると、その女性は毎日義宣たちの身の回りの世話をしている給仕人でしたが、その姿に義宣は由緒ある家の出身ではないかと思い、その女性に尋ねると真田信繁(幸村)の忘れ形見であることが分かり、名はお田と言いました。 義宣は共に将軍家に随行していた弟宣家が妻と不仲であることを日頃から心配していたこともあり、宣家を元気づけるためにお田を宣家に紹介しました。 話は急展開し、お田は宣家の側室として、桧山の多賀谷氏に嫁ぐことになりました。
京都で宣家と出会ったお田は1627(寛永4)年に多賀谷氏が治める桧山を訪れ、宣隆(当時の名は宣家)の側室になりました。(お田24才、宣家46才)
1628(寛永5)年、宣隆との間に長男の庄次郎(重隆)を生みました。(お田の方25才、宣家(宣隆)45才) 田のことは、宣隆を支える良き妻、そして子供に対しては教育熱心な母親だったと伝わっています。
夫宣家の兄である佐竹義宣は、佐竹氏の宗家として久保田藩(秋田藩)を治めていましたが、子供が居なかったため弟義継を後継者にしていましたが、訳あってそれを撤回したため、同じく弟である貞隆の息子、つまり甥っ子である吉隆を後継者にしました。 岩城吉隆は亀田藩の藩主だったため、空席になってしまう亀田藩主を同じ佐竹氏の家系で固める必要がありました。 1628(寛永5)年8月、田の息子である庄次郎(重隆)が亀田藩の藩主に任じられたことから、夫宣家と亀田藩に移り住みました。
なぜ、宣家ではなく、宣家の子である庄次郎(重隆)が岩城氏の家督を継いだのかというのには、理由があります。岩城吉隆は宣家にとって甥でした。この時代、家督は下の立場である甥から上の立場である叔父へ移る事は好ましい事ではありませんでした。そこで、まだ乳児だった庄次郎(重隆)に変わって、番代として宣家は岩城藩を取り仕切る事になり、実質的には宣家が藩主の仕事をする事になりました。 宣家は岩城氏のしきたりに従って、名前に偏諱(へんき)として「隆」の字を入れて宣隆に改名しました。この時、お田は正室になり、久保田(秋田)城下にある亀田藩邸に行っています。
1629(寛永6)年10月、お田は真田氏の菩提を弔うために、越後の妙勝寺から円乗院日砌上人を招いて久保田(秋田)に妙慶寺を建立しました。 妙慶寺はその後、亀田に移され、岩城氏の準菩提寺として10石を与えられています。 田は妙慶寺に鬼子母神の像を奉納し、自らお百度参りをしました。
田は大名の妻でありながらオムツ替え・食事・母乳など育児を給仕人だけに任せず自らも行いました。 庄次郎の礼儀作法・読み書き・武術などの教育もお田自ら熱心に指導したそうです。 1633(寛永10)年、重隆が6才の時、初めて将軍に拝謁した時には、江戸まで随行しました。
夫宣隆の許しを得て、京都から弟である左馬之助幸信を呼び寄せました。 左馬之助は真田幸信として岩城氏の家臣になりました。
重隆の参勤交代に毎回随行していたのかは不明ですが、1635(寛永12)年6月11日、重隆が参勤交代で江戸いる最中に江戸柳原にある亀田藩邸でお田が病気で亡くなりました。(田 享年32才) 江戸・下谷の宗延寺で葬儀が行われました。
田の長女(不詳)は物心が付いた頃に母である田を亡くし、その悲しみに耐えきれず心の病にかかってしまい、出家して妙慶寺で田の菩提を弔う生活を送りました。 1646(正保3)年、お田の長女(不詳)が妙慶寺で亡くなりました。 墓は妙慶寺にあり、法号は寂寥院殿心月日證大姉です。
1656年7月25日、宣隆が番代を退いて、その子である重隆が本格的に亀田藩藩主になりました。(宣隆73才、重隆29才)
妙慶寺にはお田の方、隆清院、幸信の位牌と大小刀があります。
岩城家後家譜には「真田伊豆守信幸公御姪、御同氏左エ佐幸村公女」と記されています。
重隆は亀田藩の礎を築いた名君として今日まで伝えられていますが、それは幼い頃に田から熱心に教育された成果だったと言われ、地元の岩城では良妻賢母の鑑として、地元の偉人になっています。
「真田十勇士」には、出羽亀田城主の末裔という設定で三好清海入道、三好伊三(為三)入道の兄弟が登場しますが、これは小説家が三好氏から秀吉の養子になった豊臣秀次の孫が亀田藩主の正室だったことを知って名前などが創作された可能性が大きいです。