菖蒲は真田信繁(幸村)の六女として、父の幽閉先である生まれました。
1615(慶長20)年5月7日、父である真田信繁が討ち死にし、翌日には豊臣氏が滅亡しました。
菖蒲は姉である梅を引き取った片倉重長を頼りました。同じ頃、弟である大八や"かね"も片倉氏を頼っています。
片倉氏の元に真田信繁(幸村)の子供のうち4人が集まりました。
初め青木次郎飢右衛門に嫁ぎましたが、後に片倉重綱と梅の養女として伊達正宗の正室の実家の家系、田村氏の一族、片倉金兵衛定廣(田村定広)と再婚しました。
田村氏は田村定顕(たむら さだあき)を初代とする一族です。
定広は登米郡石森村(現、宮城県中田町)に300石を与えられた平士でしたが、定広は片倉重長の異父姉である喜多の養子になったことで、片倉氏と同列扱いとなりました。そして、伊達政宗の正室の命令で定広は片倉の姓を名乗ることになりました。
1664(寛文4)、菖蒲が亡くなりました。
墓は田村家墓所(宮城県白石市)にあります。
田村氏の墓所内には、真田信繁(幸村)の供養墓があります。建てられた時期は不明です。
子孫は昭和時代に石森村長を務めました。 |