実父である真田信就は、松代2代藩主の真田信政と小野宗鑑尼間で、信政の長男として生まれました。
信弘は、1670(寛文10)12月12日に信就の七男として生まれました。
旗本である真田信親(信幸や信繁の弟である昌親の息子)の養子になって家督(2千石)を継ぎました。
松代3代藩主の真田幸道の長男である源治郎(幸道の息子)が幼くして亡くなったため、信弘が松代藩の家督を継ぐことになり、1703(元禄12)年に幸道の養子になりました。
1727(享保12)年に真田幸道が亡くなったため、信弘が松代藩を継ぎ4代藩主になりました。
信弘が松代藩を継いだ頃は藩の財政が著しく悪化しており、屋敷内を照らす照明用の油の購入代金の確保さえも苦労する程でした。信弘は財政の建て直しを図るために、塩野儀兵衛を家老職勝手掛に登用しました。財政改革が成功して信広の晩年の頃には3万両の蓄えがあったようです。
信弘は約10年間を藩主として過ごし、1736(元文元)年12月27日、松代にて亡くなりました。(信弘享年67才)
長谷寺に葬られ、その後、信弘の菩提を弔うために乾徳寺が建てられました。
長野県長野市松代町の長国寺に信弘の霊屋があります。
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