真田幸隆 沿革3
吾妻郡への侵攻を始める

吾妻郡は平安時代に滋野氏の勢力範囲だったところで、平安時代の終わりに滋野氏が海野氏・望月氏・祢津氏に分かれた後は、更に細かく家が分かれてそれぞれ領地の争いをしていました。 そして、海野平で海野氏が負けた時には親戚筋と言うこともあって逃亡先になりましたが、この辺りは上杉氏と北条氏が領土争いをしていた地域でもありました。

武田信玄は北信濃をめぐって上杉氏との対立が激しかった頃、北条氏康の嫡子である氏政に娘を嫁がせて、北条氏と同盟を結びました。そして、血縁関係がある北条氏を支援するという名目で、上杉氏の支配下にある上野国へ攻め込んだのです。

吾妻郡は海野一族の旧領ですし、親戚筋がいるところでもあったので、これは真田氏が領地を増やすチャンスでもあったのです。

1561(永禄4)年11月、武田氏は国峰城を攻略しました。

上杉方の岩櫃城、岳山城、箕輪城を攻略

1562(永禄5)年、吾妻郡の鎌原氏と羽尾氏が領土を巡って対立していました。この時、吾妻郡は岩櫃城主である斎藤憲広が強い勢力になっていました。
長尾景虎によって官僚職を取られた上杉憲政の家臣である斎藤憲広が城主でした。斉藤憲広は上杉憲政の家臣でしたが、憲政が上杉景虎によって管領職を奪われ失脚した後は、自分が直に吾妻郡一円の支配をしようと画策していました。

斉藤氏は海野氏の流れをくむ鎌原氏と羽尾氏が対立しているのを利用して、羽尾氏を支援して鎌原氏を滅ぼそうとしました。
窮地に追い込まれた鎌原氏は幸隆を通じて武田氏の家臣となり援軍を求めました。それを知った斉藤氏は上杉氏に救援を求め、斉藤氏と鎌原氏の対立は武田氏と上杉氏の対立へと発展していきました。

武田方は、鎌原氏を支援する形で、対立する羽尾幸全や斎藤憲広の討伐に乗り出しました。信玄は幸隆に吾妻郡攻略を命じ、吾妻郡最大の要害である岩櫃城の攻略を始めました。

1563(永禄6)年9月、ついに武田方による岩櫃城攻めが開始されましたが、岩櫃城は要害堅固であることと上杉氏から救援部隊が来たために、この時、幸隆は攻め落とすことができませんでした。
武力による攻略が難しいことから、幸隆は斉藤氏の内部組織の切り崩しに取り掛かりました。これが成功して、羽尾氏の息子である海野幸光と輝幸や斎藤憲広の甥である斎藤弥三郎が、斎藤憲広を裏切って幸隆方になりました。

1563(永禄6)年10月14日(13日説もあり)、幸隆によって岩櫃城は攻略され、岩櫃城主である斎藤憲広は越後の上杉氏のもとへ逃げました。羽尾幸全は戦死しました。

1564(永禄7)年3月、この頃より信玄から真田氏へ送られた書状に「一徳斎」や連名で「信綱」の名前が書かれるようになっていることから、幸隆は信綱に家督を譲って隠居し、剃髪して「一徳斎」を名乗り始めたようです。(幸隆52才)

1564(永禄7)年、第五次川中島合戦。

岩櫃城を攻略した幸隆は、1565(永禄8)年11月には常田氏・海野氏らの協力を得て、池田氏が守っていた岳山城を攻略し、武田氏の軍事力と幸隆の采配によって岩櫃城を中心にした吾妻郡に真田氏の新しい拠点ができました。この時、池田氏が長尾氏から武田氏に寝返ったと言う説もあります。

この吾妻郡での戦いの中で、真田氏は領地ばかりだけでなく、有能な家臣達をも得ることができたことで、真田氏の家臣団の層に厚みがでてきました。そして、真田氏はバラバラだった旧滋野一族を結集させることも推し進めていきました。

1566(永禄9)年、武田氏は上杉氏と激しい戦いを繰り広げながら、吾妻郡を制圧した勢いを保ちつつ、西上野で最も大規模な城郭で、長野業盛が守る箕輪城を攻めました。
9月29日、武田氏は約20000人の兵力で、僅か数百の兵が守る箕輪城を攻略し、長野氏を滅ぼしました。この時、幸隆は逃亡時代に世話になった恩義がある長野氏の遺臣たちを召し抱えることもしました。

1563(永禄6)年9月、岩櫃城攻めで生き残っていた上杉方の斎藤憲広が、幸隆の弟である常田隆永が守る長野原城に攻め込み、攻略しました。
当時、隆永は吾妻郡の箱岩城の城主でしたが、長野原城も任されていたようです。
この長野原合戦で、上杉氏からの攻撃に対して隆永は激しい攻撃から城を守りきりましたが、この戦いで長男俊綱が戦死しました。
その後、家名存続の為に河原隆正の三男である隆頼を養子にしました。

武田氏が今川氏と断絶

北の上杉氏との境界を巡る戦いで一定の成果を上げることができた武田氏は、続いて南の駿河などへの侵攻を画策しました。
駿河の今川氏と武田氏は、信玄の姉が今川義元に嫁ぎ、義元の娘が信玄の嫡子である義信に嫁ぐなど、姻戚関係を利用する政略結婚によって同盟関係が成立していました。しかし、今川氏は桶狭間の戦いで織田信長によって今川義元が戦死し、今川家を継いだ今川氏真は治める力が弱く、今川氏の勢力は義元の頃に比べ弱体化していきました。
信玄の嫡子である義信は妻が今川氏から嫁いできたこともあって、信玄が相模へ侵攻することに反対しました。これに対し信玄は、義信のお守り役だった飯富氏を義信に謀反を勧めたという理由で処刑し、義信も謀反を起こそうとしていたという理由で幽閉しました。しばらくして、義信は幽閉先で自害し、武田氏は義信の妻を今川氏へ送り返し、武田氏と今川氏の対立は決定的なものとなりました。こうした行動は信玄が力強いリーダーシップで身内の分裂をくい止めることによって、組織の引き締めを図ったのだと言えます。

1566(永禄9)年、孫である真田信幸が生まれました。

1567(永禄10)年、孫である真田信繁(幸村)が生まれました。

1567(永禄10)年3月、幸隆と信綱は上野国の白井城を攻め落とし、箕輪城に入って、ここを前線基地にしました。

1567(永禄10)年8月、武田信玄は組織固めのため、家臣から起請文(きしょうもん)を集め、生島竜島神社に奉納しました。
(起請文の現存部分に信濃先方衆筆頭だった真田幸隆・信綱父子のものはありませんが、海野氏など小県郡の家臣たちのものは比較的良く残っているようです。)

上杉氏と北条氏の間に挟まれた吾妻郡を幸隆が死守

武田氏が今川氏と国交を断絶したことで、吾妻郡は北からは上杉氏、南からは北条に攻められることになり、2強に挟まれた幸隆は一気に窮地に立たされました。
信玄は幸隆を支援するために、箕輪城へ佐久郡の祢津信直や大井高政などを加勢させ、1568(永禄11)年2月には信玄自らも北信へ攻め込んで上杉氏の飯山城を攻めました。さらに越後と信濃の国境での上杉氏との交戦に備え、小県から芦田氏・丸子氏・武石氏などを出陣させました。
この年の12月、信玄は徳川家康と組んで今川氏を攻め始め、この戦いには2人の息子信綱昌輝や佐久の依田氏も武田方として参戦しています。

1569(永禄12)年になると信玄による駿河攻めは激しさを増し、さらに相模の北条氏の本拠地である小田原城へも攻めました。小田原城を攻めた帰りに武田方は北条軍の追撃に遭いました。これが「三増峠の戦い」です。この戦いで幸隆と昌幸も参戦して成果を上げています。

信玄による積極的な攻撃に耐えかねた今川氏と北条氏は、上杉氏に何度も吾妻郡を攻めて救援して欲しいと迫るが、なぜか上杉氏は要請を無視し続けました。

1569(永禄12)年4月、白井城に上杉輝虎(のちの上杉謙信)が在陣していたため、信玄は信綱に状況を報告する様に手紙を出しています。

この頃、織田信長は足利義昭に会うため京へ上洛しました。
足利氏は織田氏が天下統一を目指して動いていることに危機感を感じて、反織田の大名に向けて織田討伐を打診する密書を送り、武田氏も密書が届きました。

上杉氏に動かれると、今川・北条への攻撃ができなくなるのを恐れた信玄は、姻戚関係で同盟を結んでいた織田氏に上杉氏の動きを封じる様に要請しました。

1569(永禄12)年12月、信玄は駿河国の蒲原城を攻略しました。この時に信玄は幸隆とその嫡子である信綱に書状を送っています。この頃から信綱は一人前の武士として認められ単独で作戦に参加するようになったようです。

1570(永禄13)年、幸隆は白井城を攻めていますが、陥落には至っていません。

1570(元亀元)年10月、上洛計画を進め始めた信玄は、織田・徳川両氏との同盟を解消しました。
徳川家康は上杉輝虎と同盟を結び武田氏への攻勢を強めました。
武田氏は北条氏との対立を解消して徳川氏への攻撃を始めるために北条氏に和睦を持ちかけました。これに対して、北条氏は当主である北条氏康が1571(元亀2)年10月に病死し家督が北条氏政に継がれたことと、上杉氏がいつまで経っても煮え切らない態度が変わらないことに嫌気がさしてこれまでの上杉重視の方針を転換し、1571(元亀2)年12月、武田氏と同盟を結びました。
武田氏と北条氏が同盟関係になったことにより、吾妻郡の幸隆は上杉氏だけを相手にすれば良いことになり、より積極的に上杉氏への攻撃をしていくようになります。

1572(元亀3)年3月 、幸隆は上杉輝虎(のちの上杉謙信)と親戚である長尾憲景の白井城を攻め落としました。幸隆は信玄から称えられ、箕輪城で高坂弾正の指示を待つように命じられました。

この頃、幸隆は箕輪城主となり吾妻郡を、信綱を上田小県をそれぞれ分担していました。

信玄が病死、後を追うように幸隆も死す

1572(元亀3)年10月、 武田信玄は上洛を開始しました。
信濃と甲斐の軍隊を結集させ、重臣である山県氏と秋山氏の軍隊を徳川氏の三河と美濃へ攻め込ませ、京の都を目指した西上作戦が本格的に始まりました。

この年の12月には遠江三方ヶ原の戦いで、武田氏は徳川・織田連合軍を破り、家康の居城である浜松城近くまで攻め込みました。
危機的状況に追い込まれた徳川氏は上杉氏に武田方を攻めるよう要請し、これに応じた上杉氏は1573(天正元)年3月には白井城を攻略し、さらに吾妻郡にも攻め込みました。幸隆は信玄が西に進む中、北条氏に気を遣いつつ上杉氏からの攻撃に対処しなければなりませんでした。

東美濃まで兵を進めた信玄でしたが、持病が悪化しして進軍を指揮できる状況になくなりました。体力の回復を待つために信濃に兵を引き返しましたが、1573(天正元)年4月12日に信玄は伊那の駒場(現在の飯田市)で病死しました。(信玄53才)

信玄の死後、武田家は四男である勝頼が家督を継ぎましたが、勝頼がまだ武田家当主になるには経験不足であると感じていた信玄は自らの死を3年間秘密にしておくように遺言したようです。
信玄の思いとは裏腹に、信玄が病死したことは直ぐに上杉輝虎(のちの上杉謙信)に知られ、上杉氏から徳川氏に伝えられました。
信玄の死を知った徳川家康は織田信長に信濃へ侵攻することを提案し、徳川氏は武田氏に攻落された長篠城を奪還しました。
北の上杉氏と、西の徳川・織田連合軍が連携して同時に攻めてくることになり、武田氏は信玄の死に対する組織内の動揺を静める間もなく、甲府を出て出兵せざるを得ない状況へ追い込まれていきました。

上杉氏は幸隆が守っている吾妻郡を攻めましたが、このころ幸隆の病気が急激に悪化していきました。
幸隆は信玄の死から約1年1ヵ月後の1574(天正2)年5月19日に岩櫃城で亡くなりました。(砥石城で亡くなったと言う説もあります。)(真田幸隆 享年62才)
幸隆の死後、遺体を調べたところ、幸隆の体には25カ所(35カ所の説もあり)の傷跡があったと伝えられています。

5月28日、遠江の国の高天神城を攻めていた武田勝頼が、幸隆の病状を心配して手紙を書いていますが、この時はもう既に幸隆はなくなっていました。

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