真田頼昌の三男である矢沢頼綱は、諏訪神氏の一族で真田の地に隣接する矢沢の地にいた矢沢氏の養子になりました。
母は海野棟綱の娘で、幼名は源之介です。
頼幸、綱頼と名前を変え、1576(天正4)年11月には武田勝頼から頼の字を賜って頼綱に改名しました。
真田氏と矢沢氏は同じ海野氏の家臣という立場であり、矢沢氏は真田氏の家臣ではありませんでしたが、兄である真田幸隆が海野一族内での実権を握り武田信玄の家臣になった時から、頼綱は真田氏の幹部として幸隆と行動を共にしました。
武田氏の組織内で信州先方衆として活躍し、真田氏が昌幸の代になった頃から真田氏の家臣として活動しました。
1561(永禄4)年からの岩櫃城攻略で戦功を上げました。
1575(天正3)年、矢沢氏の菩提寺である良泉寺に10貫文を寄進しています。
1579(天正7)年頃から、甲府の勝頼の下で政務を執る昌幸に代わり、沼田城の攻略に従事しました。
1580(天正8)年3月、再び沼田城を攻めますが、名胡桃城を手中に収めるも北条氏邦などの援軍により、反撃が激しくなり撤退しました。
同年5月4日、 沼田城を無血開城させました。
1581(天正9)2月11日、頼綱は武田勝頼から沼田城攻略の戦功を称えられて太刀を拝領しています。
1581(天正9)11月に起こった海野幸光・輝幸による謀反疑惑では、頼綱が海野氏を討伐すべきであると昌幸に進言したことにより、昌幸は海野氏がいる岩櫃城・沼田城を攻略、海野氏を討伐しました。これにより、真田氏の組織内部の不安定要素は低減し、結束は確固たるものへとなりました。
1583(天正11)年、頼綱は昌幸から沼田城主を城代として任され、白根の地など200貫文を与えられました。
1585(天正13)年8月、沼田の地を北条氏に明け渡す様に迫った徳川氏に対して全面拒否を打ち出した昌幸を討つため、徳川氏は上田小県の地に鳥居元忠・大久保忠世・大久保忠教・平岩親吉・柴田重政らを送り込み、第一次上田合戦が勃発しましたが、昌幸による徳川氏撃退作戦が成功を収めました。
9月、徳川方が八重原付近で体制の立て直しをしていた一方で、昌幸が上田から動けない状況下で北条氏直による沼田城への直接攻撃が始まりました。
北条氏の大軍を迎え撃つために、頼綱は沼田の中心へ向かう途中にある木戸口付近に薪を集めました。
北条方が城内へ侵入しようと木戸口付近に大挙して攻めてきた時に、城内から農民達に松明を敵兵に向かって投げつけさせました。
松明の火によって甲冑が燃えたり、馬が暴れるなど北条氏は門の前で混乱に陥りました。
頼綱は城内から15000の兵を出撃させたため、北条方は十分な攻撃ができずに撤退しました。
1586(天正14)年5月の北条方による沼田城攻撃では、頼綱が沼田を攻める北条氏邦に宛てた書状で「山中へのご出張、誠にもってご苦労の極みに候」と小馬鹿にしました。これに対して氏邦は「山中珍しく覚うるにつき、鷹狩り仰せ付けられ候」、つまり鷹狩りのついでに沼田へ攻めるのだと返事をしましたが、この時の北条氏による沼田城攻略も成功しませんでした。
沼田城を北条氏が数度にわたって攻撃してきた時、上杉氏に応援を要請するなどして、頼綱は沼田城を守りきりました。
1586(天正14)年5月、北条氏が再び大規模な攻撃を仕掛けてきましたが、この時も沼田城を守りきりました。
岩櫃城代も務めました。
頼綱は吾妻郡中之条の地に林昌寺(群馬県吾妻郡中之条町)を創建しています。
1597(慶長2)年、頼綱は享年80才で亡くなりました。
息子の頼康は大阪の陣で信之の長男信吉・次男信政をサポートするなど、親子二代に渡って真田氏にとって一番厳しい時代において貢献した重臣と言えるでしょう。
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