真田頼昌の三男である隆永が養子として入った常田氏は、現在の上田市の中心部の一部である常田の庄を治めていた豪族でした。
兄である真田幸隆が武田氏の下で海野氏の主流派として活躍している時は、武田氏の家臣として幸隆を支えていましたが、矢沢頼綱よりも早い時期に真田氏の家臣になったものと思われます。
兄である真田幸隆・矢沢頼綱と共に武田氏の家臣となり奮戦した後、吾妻郡の箱岩城の城主となりました。
岩櫃城攻略の真っ直中だった1563(永禄6)年9月に起きた長野原合戦で、上杉氏からの攻撃に対して隆永は激しい攻撃から城を守りきりましたが、この戦いで長男俊綱が戦死しました。
その後、家名存続の為に河原隆正の三男である隆頼を養子にしました。
1583(天正11)年頃、徳川氏の下で上田小県を平定した真田昌幸が常田の庄を含む現在の上田城周辺を上田に改名し上田城を築き始めました。
そして、約2年後の1585(天正13)年頃、真田氏が沼田問題で徳川氏と訣別し合戦に及んだ頃に上田城は完成しました。
江戸時代以降に藩主邸として使われた場所は昌幸が上田城に在城した当時では、常田屋敷と呼ばれたという説もあります。
昌幸が陣取る上田城の周囲に、元々地元で栄えてきた常田氏が真田氏重臣として大きな館を構える事は不自然ではないかも知れません。
隆永は晩年、剃髪して道尭を名乗り、1570(元亀3)年7月8日に亡くなりました。
長野県上田市にある月窓寺に月窓寺殿前羽州公伝叟一天大居士と刻銘された墓があります。
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