元服した信綱は、父幸隆の下で武勇を身に付けるとともに、親譲りの才能を開花させていきました。
1561(永禄4)年、25才を迎えた信綱は第四次川中島の戦いで、信玄の本陣を固める旗本組の一員として参陣しました。
武田方が上杉の本陣がある妻女山へ奇襲攻撃を仕掛けた時には幸隆を補佐し、信綱は武田氏家臣団の中でも次代を担う若武者としての実力をアピールしました。
啄木鳥(きつつき)戦法を行う部隊にいたと言う説もあります。
1568(永禄11)年12月6日、信玄は駿河侵攻を開始し、信綱は信濃先方衆として弟昌輝と共に参戦しました。
1569(永禄12)年6月、伊豆韮山城の戦いで北条氏康と戦いました。
1570(元亀元)年10月、勢いの乗る織田氏と同盟関係だった徳川氏と、上洛を考え始めた武田氏とが対立し同盟は解消されました。
徳川家康は上杉輝虎と同盟を結び武田氏への攻勢を強めました。
武田氏は北条氏との対立を解消して徳川氏への攻撃を始めるために北条氏に和睦を持ちかけました。これに対して、北条氏は当主である北条氏康が1571(元亀2)年10月に病死し家督が北条氏政に継がれたことと、上杉氏がいつまで経っても煮え切らない態度が変わらないことに嫌気がさしてこれまでの方針を転換し、1571(元亀2)年12月、武田氏と同盟を結びました。
武田氏と北条氏が同盟関係になったことにより、信玄にとって上洛し易い状況になりました。
1572(元亀3)年、信玄は上洛作戦を展開し始めます。
9月末、信綱は山県昌景とともに西に向かう先発隊(先鋒)として出発しました。先発隊に選ばれたと言うことは、これまでの戦功を信玄から評価された証であり、信綱にとっては大きな名誉でした。
1572(元亀3)年12月、三方ヶ原の戦いで武田軍が徳川軍に圧勝したことに貢献しました。
信綱は父幸隆とともに武田二十四将の一人になっています。
合戦では青江貞次が鍛えた三尺三寸の陣刀を振り回して戦いました。 |