真田昌輝
プロフィール
読み仮名
さなだ まさてる
生没
1543(天文12)~1575(天正3)5月21日 享年33才
出生
真田幸隆の次男、母は河原隆正の妹
別名
徳太郎、兵部(兵部丞、兵部介)、信輝
法号
嶺梅院殿風山良薫大居士
正室:相木市兵衛(武田勝義の家臣)の娘
子供
長男:信正(五郎兵衛、主税助、幸明)
信綱寺(長野県上田市真田町長8100)
福井市足羽山公園西墓地(西墓地公園とも呼ばれている)
供養碑
設楽原 真田氏墓所(愛知県新城市)
備考
 
沿革
真田昌輝の沿革

1543(天文12)、真田幸隆の次男として岩尾城で生まれました。

武田信玄の小姓として仕え、元服後は武田軍の「百足(ムカデ)衆」に抜擢されました。百足衆(百足隊)とも呼ばれは、戦場において武田本陣からの命令伝達や偵察を主な任務にしており、背中の旗指物にムカデが描かれ、戦場では花形であり重要な役割を果たしました。ちなみに古くからムカデは毘沙門天の使いと言うことになっています。

信玄から「兵部は我が両眼なり」と言われる程、信玄の期待に応えていきました。

兄信綱とともに信玄から騎馬を50頭授かったこともあり、信州先衆方の副将として活躍していました。

1569年、武田信玄による小田原城攻めの時には、大きな戦功を上げました。

1575(天正3)年の長篠の戦いでは兄の信綱と共に戦死しました。(昌輝享年33才)

長男信正

昌輝には信正(のちに幸明)という長男がいました。
信正は昌輝が長篠の戦いで戦死した時は2才で、その後は真田昌幸のもとで養育されました。
1611(慶長16)年には越後の高田城城主である松平忠輝に700石で仕えました。
しかし1616(元和2)年に松平忠輝は改易され、1618(元和4)年から高田城に移封された松平忠昌に仕えました。
松平忠昌が越前国北ノ庄藩(のちの福井藩)へ移封され時には一緒に福井へ移りました。
本多忠国にも仕えたという説もあります。

昌輝の家系は越前真田氏として現代にまで続いています。

越前にも昌輝の墓が建てられています。

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