真田昌幸 没後の状況
信之は昌幸の大規模葬儀を断念
信之は昌幸を弔うことを計画しましたが、本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得され、大規模な葬儀の挙行は断念せざるを得ませんでした。
幕府と豊臣の対立の中で、自分の父親をきちんと弔うことができない厳しい現実に、信之は直面したのです。
豊臣氏への忠誠は信繁(幸村)に引き継がれる

昌幸が亡くなった翌年の1612(慶長17)年、昌幸の家臣は一周忌をすませ、少数の家臣を信繁(幸村)のもとに残し九度山から信之がいる上田へ帰りました。

同じ年である1612(慶長17)年、信繁の二男である大八(のちの片倉守信)が生まれました。
大八は後に仙台藩で信繁(幸村)の男系の血筋を引き継ぐことになります。

さらにその翌年の1613(慶長18)年には、昌幸の正室で信之と信繁の生母である寒松院が逝去し、上田の大輪寺に葬られました。

昌幸が亡くなった約3年後の1614(慶長19)10月、信繁(幸村)は豊臣への忠誠心と徳川氏との対立によって大坂の陣に参戦し、活躍することになります。

 
 
 
 
 
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