真田昌幸 沿革1
海野一族、逃亡する
真田氏は海野一族として現在の真田町の一帯を勢力の拠点にしていましたが、この地域は村上氏との争いが絶えないところでもありました。
昌幸が生まれる6年前の1541(天文10)年5月、真田氏が所属していた海野氏のグループは「海野平の合戦」(神川合戦)で武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍に敗れました。この戦いで勢力を失って没落した海野氏とともに真田氏は上州(群馬県西北部)へ逃れ、箕輪城主である長野業正(ながの なりまさ)を頼りました。
上野国の吾妻郡は数多くの海野氏の支族(親戚関係や同盟関係)が支配していた地域で、それに隣接した業正は上杉の家臣でした。
上野国に逃げた海野一族ですが、海野棟綱に取って代わって幸隆が海野一族を事実上継承し、このあと真田氏が小県ので領土回復を目指して行動していくことになります。
真田氏が武田氏の家臣になったこの頃、昌幸が生まれる
上野国でしばらく逃亡生活をしていた幸隆は、武田晴信についたほうが有利であると判断して、長野氏から離れて武田氏の家臣となります。
武田氏が佐久地方を攻略しようとしている最中に家臣として働き始めた幸隆は、武田氏の思惑通り佐久地方の豪族を次々に説得して配下へ引き入れていきました。

こうして父幸隆が武田氏のもとで再出発したこの時期、1547(天文16)年に昌幸は真田幸隆の三男として生まれました。母は山之手です。 

戸石城を攻略し、真田氏は小県の領地を回復

やがて武田晴信は諏訪地方、伊那地方、佐久地方をほぼ制圧し、信濃を北上するために村上氏を攻撃しました。
村上氏は海野一族が逃亡した後、小県を支配していたので、真田氏にとって仇のような存在でした。

1548(天文17)年2月14日に武田晴信と村上義清による上田原の戦いが起きましたが、この戦いで晴信の重臣である板垣信方などが戦死、晴信本人も負傷し、武田軍は村上軍に大敗退してしまいました。
武田氏は諦めずに、1550(天文19)年9月9日から村上氏の戸石城への攻撃を開始しましたが、武田軍は村上軍に再び大敗退しました。
しかし、翌年の1551(天文20)年5月、幸隆による村上方の切り崩しが成功して戸石城を真田単独で攻略し、真田氏は長年の夢だった本拠地である真田への復帰を果たしました。

村上氏を攻略
拠点の一つである戸石城を奪われた村上氏でしたが、まだその勢力は強いものでした。しかし、真田氏による村上方の組織内部への切り崩し工作と、松本平を攻略した武田氏が北上して西側から村上氏を攻めたことにより、村上方から離反者が続出しました。
村上氏は味方が減っていく中、1553(天文22)年4月9日、ついに村上氏は本拠地である葛尾城から逃げなくてはいけなくなり、葛尾城は落城し、村上氏は葛尾城から脱出しました。
1553(天文22)年8月5日には村上氏の最後の拠点だった塩田城も攻略、村上氏は上杉氏に助けを求めて逃亡しました。
これにより武田氏による東信地方制圧が完了しました。
人質として甲府の武田氏へ
上杉氏の支援で抵抗していた村上氏を破った武田氏は、その褒美として幸隆に真田と上田の地を与えました。
本拠地に戻ることができた幸隆は武田氏への忠誠を誓うために1553(天文22)年8月10日、昌幸(7才)は弟の信尹(信昌)とともに甲府の武田氏へ人質として出されました。
昌幸は武田氏の計らいで、武田氏の親戚である武藤三郎左衛門の養子になって武藤喜兵衛(むとうきへい)と名乗り、奥近習衆に加わりました。これより以降しばらく、昌幸は甲府にて暮らすことになりました。武藤氏は信玄の母の実家である大井氏の親戚でした。
昌幸は父幸隆譲りの才能を信玄の下でいかんなく成人(元服)になった後は信玄の旗本として、戦いでは使番・検使を務めました。
初陣

1561(永禄4)年、第四次川中島合戦が勃発。昌幸はこの戦で信玄の小姓として初陣を飾りました。この時、総大将である武田信玄から「昇梯子の鎧(のぼりばしごのよろい)」を授かりました。
この合戦は川中島合戦で最も激戦だったとされ、武田方の本陣が切り崩され、上杉隊が信玄に迫りました。旗本の諸隊がちりぢりになった時でも、昌幸は土屋平次郎昌次とともに、逃げることなく信玄の近習としての務めを果たしました。

その後も昌幸は、土屋平次郎・曽根内匠昌世・三枝勘解由左衛門(守友)らと共に信玄に重用されました。

幸隆の岩櫃城攻略に加わる
1561(永禄6)年10月、父幸隆は斉藤憲広を破り上州吾妻郡の要害である岩櫃城を攻略しました。この時、幸隆の三男である武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)も戦いに加わっています。
この勝利で、父幸隆は信玄から吾妻郡の統治を任せられました。
子供が生まれる
1566(永禄9)年、武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)の嫡子である源三郎(後の真田信之)が生まれ、1567(永禄10)年には次男である源二郎(後の真田信繁、幸村)が生まれました。
信之誕生以前に長女である村松殿が生まれていますが、生まれた時期は不詳です。

1567(永禄10)年11月、勝頼に待望の嫡子である信勝が誕生した時に昌幸は武田氏の重臣として信玄からの祝いの使者を務めました。この頃、昌幸は足軽大将に昇進し、信玄の家臣としての地位を更に確実なものにしていったようです。

 
武田氏による猛攻に昌幸も参戦
1569(永禄12)年、信玄は駿河の今川氏を攻撃し、更に相模国の北条氏の本拠地である小田原城を攻めました。昌幸は検使として馬場信春隊にいました。検使(けんし)とは大将である信玄からの命令と、部隊の様子を、派遣された隊と本陣の間を往復して、情報を伝達する重要な役職です。派遣先の隊長が戦死した場合は、その部隊の指揮を取ることも任務でした。
この戦いで、 武田氏が小田原城を攻略できず、甲府へ引き揚げる途中の三増(みませ)峠で、北条氏が武田氏へ攻撃し、「三増峠合戦」が起きました。武藤喜兵衛(真田昌幸)は、一番槍の功名をあげました。(昌幸23才)

1570(元亀元)年、武田氏による駿河国の花沢城への攻撃では二番槍の功を立てました。

この頃、信玄は昌幸のことを「わが両眼のごとき者」と褒め称えました。

 
信玄の後を追うように父幸隆が他界
1571(元亀2)年10月、北条氏政が上杉氏との同盟を破棄し、信玄と同盟を結びました。

1572(元亀3)年10月、信玄が京の都に向かう西上作戦を実行に移しました 。この時、昌幸は足軽大将として騎馬15騎、足軽30人を引き連れて参陣しました。

1572(元亀3)年12月、信玄は遠江三方ヶ原の戦いで徳川・織田連合軍を敗り、家康を浜松城に追い詰めましたが、翌年の1573(天正4)年3月に信玄は徳川氏を攻撃している最中に病気が悪化して信濃国伊那の駒場(現在の飯田市)まで退却し、4月12日に病死しました。(武田信玄 享年53才)

1574(天正2)5月19日、父である幸隆が信玄の後を追うように上野吾妻の地にて62才の生涯を終えました。(信綱38才)

 
兄に代わって昌幸が真田氏の家督を継ぐ(長篠の合戦)
信玄が亡くなったことで、徳川と上杉から武田氏への攻撃が激しくなり、武田氏の家督を継いだ勝頼やその重臣達は激しい攻撃の中で、組織の空中分解を食い止めようと四苦八苦していました。
昌幸は勝頼の代になっても当主の側近として活動し、最前線で奮闘する武将達に勝頼の命令を伝達するなどして働いていました。

信玄が三方ヶ原の戦いで攻略した長篠城は室賀信俊が守っていましたが、信玄が亡くなった混乱を狙って徳川氏が奪還し、武田氏を裏切った奥平信昌がその城主になりました。この頃、父幸隆を亡くし真田氏の家督を継いだ信綱は、激しさを増した上杉氏からの攻撃から吾妻郡を守るのに苦慮しました。

武田勝頼は父信玄の意志を継ぐため、信玄の死で中途半端に終わった徳川氏への攻撃を再び始めることで、武田氏の勢いを高めようと考え、軍隊を西へ進めました。この時、信綱にも出陣の命令が出ました。

そして、1575(天正3)5月21日に織田徳川連合軍と武田軍の大規模な衝突、「長篠合戦」が起こりました。それまで最強と言われた騎馬軍団を中心に猛威をるった武田軍は、組織的な手法でその威力を十分に発揮した織田・徳川連合軍の鉄砲隊に惨敗しました。この戦いで武田氏の重臣である馬場信克・山形昌景・内藤昌豊ら多数の名だたる武将が戦死し、武田軍の戦力は大幅に弱体化していきました。そして、小県郡や佐久郡の望月義勝や祢津是広らと共に右翼隊として奮戦していた真田信綱(39才)とその弟である昌輝もこの激戦で設楽原にて戦死しました。この時、昌幸は戦線の後方において総大将である勝頼の本陣周辺で働いていたため、戦死は免れました。

この戦いの後、幸隆の三男である武藤喜兵衛が本来の真田姓を名乗り、真田昌幸として真田家を継ぐことになりました。(昌幸 29才)

 
 
 
 
 
1560(永禄3)年8月、長尾景虎(上杉謙信)が上野に侵攻。沼田顕泰は元々北条氏の家臣でしたが、景虎の家臣になり、1578(天正6)年3月に起こった御館の乱までの18年間は上杉氏の関東出兵の拠点として機能しました。

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