 海野一族、逃亡する |
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真田氏は海野一族として現在の真田町の一帯を勢力の拠点にしていましたが、この地域は村上氏との争いが絶えないところでもありました。
昌幸が生まれる6年前の1541(天文10)年5月、真田氏が所属していた海野氏のグループは「海野平の合戦」(神川合戦)で武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍に敗れました。この戦いで勢力を失って没落した海野氏とともに真田氏は上州(群馬県西北部)へ逃れ、箕輪城主である長野業正(ながの なりまさ)を頼りました。
上野国の吾妻郡は数多くの海野氏の支族(親戚関係や同盟関係)が支配していた地域で、それに隣接した業正は上杉の家臣でした。
上野国に逃げた海野一族ですが、海野棟綱に取って代わって幸隆が海野一族を事実上継承し、このあと真田氏が小県ので領土回復を目指して行動していくことになります。 |
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真田氏が武田氏の家臣になったこの頃、昌幸が生まれる |
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戸石城を攻略し、真田氏は小県の領地を回復 |
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村上氏を攻略 |
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拠点の一つである戸石城を奪われた村上氏でしたが、まだその勢力は強いものでした。しかし、真田氏による村上方の組織内部への切り崩し工作と、松本平を攻略した武田氏が北上して西側から村上氏を攻めたことにより、村上方から離反者が続出しました。
村上氏は味方が減っていく中、1553(天文22)年4月9日、ついに村上氏は本拠地である葛尾城から逃げなくてはいけなくなり、葛尾城は落城し、村上氏は葛尾城から脱出しました。
1553(天文22)年8月5日には村上氏の最後の拠点だった塩田城も攻略、村上氏は上杉氏に助けを求めて逃亡しました。
これにより武田氏による東信地方制圧が完了しました。 |
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人質として甲府の武田氏へ |
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上杉氏の支援で抵抗していた村上氏を破った武田氏は、その褒美として幸隆に真田と上田の地を与えました。
本拠地に戻ることができた幸隆は武田氏への忠誠を誓うために1553(天文22)年8月10日、昌幸(7才)は弟の信尹(信昌)とともに甲府の武田氏へ人質として出されました。
昌幸は武田氏の計らいで、武田氏の親戚である武藤三郎左衛門の養子になって武藤喜兵衛(むとうきへい)と名乗り、奥近習衆に加わりました。これより以降しばらく、昌幸は甲府にて暮らすことになりました。武藤氏は信玄の母の実家である大井氏の親戚でした。
昌幸は父幸隆譲りの才能を信玄の下でいかんなく成人(元服)になった後は信玄の旗本として、戦いでは使番・検使を務めました。 |
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幸隆の岩櫃城攻略に加わる |
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1561(永禄6)年10月、父幸隆は斉藤憲広を破り上州吾妻郡の要害である岩櫃城を攻略しました。この時、幸隆の三男である武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)も戦いに加わっています。
この勝利で、父幸隆は信玄から吾妻郡の統治を任せられました。 |
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子供が生まれる |
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武田氏による猛攻に昌幸も参戦 |
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