山手殿の出身については資料が無く分かっていません。
山手殿の生い立ちについての諸説一覧
1.正親町実彦の娘で、武田信玄の養女(綱徳家記)
2.正親町(おおぎまち)実彦の姪で、菊亭晴季の養女(滋野世記、取捨録、樋口系図)
3.今出川(菊亭)晴季(はるすえ)の娘(滋野世記、真武内伝)
4.宇田下野守頼忠の娘(真武内伝、諸家高名記)
5.宇田河内守頼次の娘(真田秘伝記)
6.遠山右馬亮の娘(沼田記、続武家閑談)
山手殿の出身については主に6つの説がありますが、この中で可能性が低いものから見ていきましょう
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<6の説について>
滋野世記では幸隆の娘(昌幸の妹)が遠山氏に嫁いだことになっており、真田軍功家伝記では昌幸の弟である信尹の娘が遠山氏に嫁いだことになっています。
この説は真田氏の娘の一人が遠山氏に嫁いでいったことの誤伝によるものである可能性が高いです。
<4と5の説について>
宇田頼忠と宇田頼次は親子です。
頼忠の娘は石田三成に嫁いでおり、頼次と三成は義兄弟ですが頼次はさらに三成の父である正継の養子でもありました。
つまり頼次と三成は義兄弟ながら2つの縁で結ばれていました。
石田氏と親密だった頼次は昌幸の娘と結婚していますので、その娘、つまり昌幸にとっては孫に当たる頼次の子を昌幸の夫人にすることはあり得ません。
この説は宇田氏を中心とした石田氏と真田氏の関係に、後世において関ヶ原合戦での武勇伝などが語られるうちに誤伝してしまったのでしょう。
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1~3のように有力な公家から昌幸が妻を娶ることは可能だったのでしょうか?
昌幸は1553(天文22)年8月10日、11才の時に弟の信尹(信昌)とともに甲府の武田氏へ人質として出されました。しばらくして、武田家ゆかりの武藤氏の養子になって武藤喜兵衛と名乗り、これより以降しばらく甲府にて暮らし、元服(成人)した後は昌幸は父譲りの才能を開花させ、信玄の旗本として、戦いでは使番・検使を務めました。信玄の正室は公家の三条公頼の娘ですが、三条氏は藤原氏北家閑院流の嫡流であり、今出川氏は庶流西園寺氏からさらに分かれた家でした。そして、信玄の妹の一人が晴季の妻になっています。
こうした関係を見ていくと、昌幸を高く評価していた信玄が公家の娘との縁談を昌幸に勧めても不自然ではないでしょう。
<3の説について>
今出川晴季は後に右大臣も務め、武田氏滅亡後には秀吉の関白就任などで武士と朝廷のパイプ役を果たしていくことになる大物で、いくら武田氏の仲介があったとしても、まだ武田氏の一家臣だった真田氏が一足飛びに今出川(菊亭)氏ほどの公家の大物の娘を嫁に迎えることはまず不可能だったと考えます。
<2の説について>
正親町実彦(おおぎまち さねひこ、別名:正親町季秀(おおぎまち すえひで))は天文17年生まれで、昌幸より1才年下です。
実彦と山手殿それぞれの親子関係が実の親子と言うことなら山手殿の親と実彦が兄弟というのは難しい事ですが、異母兄弟や養子と言うことになれば従兄弟同士が30才以上離れていても可笑しいことではなく、この説の可能性は否定できません。
<1の説について>
「高野山蓮華定院過去帳」によると、1607(慶長12)年9月21日に昌幸とその室(山手殿)の生前供養の日牌が上げられています。
これに昌幸は「一翁千雪居士逆修」、山手殿は「宝月妙鑑信女逆、武田信玄養子、真田房州簾」と記されています。これは「綱徳家記」の信玄養女説を裏付けるものです。
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山手が昌幸と結婚した経緯における現時点での最も有力な説
昌幸の嫁探しをしていた信玄が、妹の婿である正親町実彦に相談を持ちかけ、そして正親町氏の親戚だった女子か、正親町氏のごく親しい間柄の女子が信玄の養女という形で昌幸と結婚させたと言う説が現在では最も有力とされています。
正親町娘説が出てきた背景は、長い間で行われた言い伝えの最中に「近親者である女子→娘」に情報が変化してしまったか、「正親町の娘」である方が真田氏にとって都合が良かったからかも知れません。
山手殿は「京の御前」とも呼ばれていましたが、これは山手殿が京都出身の身分の高い家の出身だったことの表れであり、山手殿は正親町氏または公家に近い階層の出身者だった可能性が高いようです。 |