その後、家康は大坂城付近・高野山・大和で大規模な落ち武者狩りを行い、さらに諸国の代官に豊臣方の残党とその妻子の逮捕を命じました。
秀頼の子である国松は京都で徳川方に捕まり、六条河原で斬首されました。
国松の妹は助命され、のちに天秀院として鎌倉の東慶寺の庵主になりました。
長宗我部盛親・大野治房・大野治胤も身柄を確保されました。
片桐且元は大坂城落城の20日後である5月28日に急死しました。
大阪の役の論功行賞は5年間にわたり、約80人を対象に行われました。
しかし、滅ぼした豊臣氏の財産は66万石と残り少ない秀吉の遺産のみでした。
豊臣方に集まった戦力は、そのほとんどが牢人であったために、徳川方が大坂の陣での褒賞として家臣に与えられるものは僅かなもので、井伊直政の加封10万石が最大でした。
薩摩島津の当主である島津忠恒が、江戸滞在中に信繁(幸村)の戦いぶりを聞きつけ、そのことを薩摩への手紙に「真田日本一の兵(つわもの)、いにしえよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」と書き記し、細川忠興は「古今これなき大手柄」と書き記しました。
大阪の役が終わってから1年も経たない1616(元和2)年4月1日、信繁の宿敵である徳川家康が駿府城で逝去しました。(家康75才)
その後、信繁(幸村)の墓が真田氏ゆかりの地の各所に建てられました。
大雲山龍安寺大珠院(京都府)、田村家墓所(宮城県白石市)、善名称院(真田庵)(和歌山県伊都郡九度山町九度山1413)
信繁(幸村)の首を取った西尾宗次は孝顕寺に信繁(幸村)の首塚を建立しました。この首塚は「真田地蔵」と呼ばれ、現在は福井市立郷土歴史博物館にあります。 |