真田信繁(真田幸村) 没後の状況
大坂城落城、長男幸昌は秀頼の後を追って自害

1615(慶長20)年5月8日朝、大阪城内に詳しい片桐且元が、秀頼・淀殿らが芦田郭(山里丸)にいる可能性が大きいことを秀忠に進言しました。これを聞いた秀忠は井伊直孝に芦田丸へ行き確認するよう命じました。
秀忠が家康に今後の対応について問い合わせている間に、芦田郭付近で徳川方が銃を撃ちました。これを聞いた大野治長・速水守久が徳川方がすぐそこまで迫っていることを知り、芦田郭に火を放ちました。
豊臣方は秀頼の子である国松とその妹を城外へ逃がし、秀頼と淀殿は自害しました。
大野治長・速水守久・真田幸昌(大助)など約30名が後を追って自害しました。
この時、幸昌(大助)は毛利勝永(吉政)から大坂城脱出を進言されましたが、そうしませんでした。

秀頼の自害を聞いた家康は、密かに桜門から大坂城本丸へ入り京橋から出て、千姫を連れて京都に戻りました。

大坂夏の陣で大坂城は落城、徳川軍が勝利し、豊臣氏は滅亡しました。

信繁(幸村)の首実検がが行われました。秀忠は信繁(幸村)の叔父で勧誘工作にもあたった真田信尹に「昨年、2度信繁(幸村)に会ったから、見覚えがあるだろう。」と問いましたが、信尹は「見覚えがありません。その時は夜中で、信繁(幸村)は用心していたため、近づくことはできませんでした。」と答えました。

豊臣氏滅亡の直後

その後、家康は大坂城付近・高野山・大和で大規模な落ち武者狩りを行い、さらに諸国の代官に豊臣方の残党とその妻子の逮捕を命じました。
秀頼の子である国松は京都で徳川方に捕まり、六条河原で斬首されました。
国松の妹は助命され、のちに天秀院として鎌倉の東慶寺の庵主になりました。

長宗我部盛親・大野治房・大野治胤も身柄を確保されました。

片桐且元は大坂城落城の20日後である5月28日に急死しました。

大阪の役の論功行賞は5年間にわたり、約80人を対象に行われました。
しかし、滅ぼした豊臣氏の財産は66万石と残り少ない秀吉の遺産のみでした。
豊臣方に集まった戦力は、そのほとんどが牢人であったために、徳川方が大坂の陣での褒賞として家臣に与えられるものは僅かなもので、井伊直政の加封10万石が最大でした。

薩摩島津の当主である島津忠恒が、江戸滞在中に信繁(幸村)の戦いぶりを聞きつけ、そのことを薩摩への手紙に「真田日本一の兵(つわもの)、いにしえよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」と書き記し、細川忠興は「古今これなき大手柄」と書き記しました。

大阪の役が終わってから1年も経たない1616(元和2)年4月1日、信繁の宿敵である徳川家康が駿府城で逝去しました。(家康75才)

その後、信繁(幸村)の墓が真田氏ゆかりの地の各所に建てられました。
大雲山龍安寺大珠院(京都府)、田村家墓所(宮城県白石市)、善名称院(真田庵)(和歌山県伊都郡九度山町九度山1413)
信繁(幸村)の首を取った西尾宗次は孝顕寺に信繁(幸村)の首塚を建立しました。この首塚は「真田地蔵」と呼ばれ、現在は福井市立郷土歴史博物館にあります。

真田幸村として伝説化していった信繁と大助
江戸時代では「真田三代記」、そして明治時代以後では「立川文庫」で真田幸村を中心に真田一族、忍者、真田十勇士などが活躍する小説が、民衆の間に広まりました。これにより信繁は幸村の名前で戦国の伝説的ヒーローになっていきました。
幸村・大助の薩摩生存説などは、こうした中から出てきた現象だと言われています。
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