真田信繁(真田幸村) 沿革1
真田信繁(真田幸村)生まれる

真田信繁は1568(永禄11)年に武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)の次男として生まれました。母親は山手殿(寒松院)です。
幼名は源二郎または弁丸でした。

上杉氏へ人質として出される

父昌幸が小県郡を統一する少し前、1584(天正12)年4月に徳川家康と羽柴秀吉による「小牧・長久手の戦い」が起こりました。

昌幸は武田氏滅亡後は織田氏の家臣になりましたが、すぐに本能寺の変で織田信長が討たれて、この頃には家康の家臣となっていました。

家康は秀吉との対立に専念するために、それまで敵対していた北条氏と和議を結ぶため、昌幸に沼田を北条氏に渡すように命令しました。昌幸は武田氏の時代に幸隆が実力で勝ち取ったものだという思いから、この命令には従わず徳川氏と絶縁しました。
徳川氏と北条氏の駆け引きで領地を取られることを避けたい昌幸は、秀吉と和を結んでいた上杉氏を頼り、1585(天正13)年7月には上杉景勝から家臣になることを許されました。上杉氏にとって、越後の目と鼻の先で武田方の最前線で勢いを誇っていた真田氏が、徳川氏と絶縁して自分の家臣になることは徳川氏に対する牽制の意味もありました。

8月、昌幸は上杉氏に対して忠誠を示すために信繁(幸村)を人質として上杉氏に送りました。(信繁19才)
信繁は矢沢頼幸と共に上杉氏家臣である須田満親が守る海津城に入り、その後、上杉氏の本拠地である春日山城に入り、上杉景勝と面会しました。この時、信繁(幸村)や側近の矢沢頼綱だけでなく、海野氏・望月氏・丸子氏など総勢100騎程度の真田隊が上杉氏の指揮下に入り、これに対し景勝は矢代左衛門の領地である3000貫内の1000貫を信繁(幸村)に分け与えました。
信繁(幸村)の逃亡や戦死を恐れてか、上杉氏は信繁(幸村)自身の出陣を許可せず、上杉指揮下の真田隊は矢沢頼綱により指揮されましたが、景勝の出陣に従い各方面で活躍したようです。出陣は許可されませんでしたが、信繁(幸村)は自分の家臣への知行について、ある程度の裁量権はありました。
この頃、信繁(幸村)はまだ元服していなかったようで、家臣への知行安堵での書状には信繁(幸村)の幼名である弁丸の「弁」が署名されています。

豊臣秀吉の家臣になる

昌幸は第一次上田合戦の最中、大谷吉隆を通じて秀吉の家臣となりました。

1586(天正14)年5月、上杉景勝が本拠地である春日山を出て上洛をしました。
昌幸は景勝が留守になったこの時を狙って、二男信繁(幸村)や上杉氏指揮下にあった真田隊を上田に呼び戻しました。

徳川氏との対立で真田氏は上杉氏に頼りましたが、今後は豊臣氏の家臣になる事を選択した昌幸は信繁(幸村)は大坂城に向かわせ人質とし、真田氏は正式に秀吉の家臣になりました。
これを知った景勝は激怒して秀吉に信繁(幸村)を引き渡すよう強く要求しました。

この頃、信繁は真田氏家臣である堀田作兵衛興重の妹(この時は興重の養女)と結婚し、長女である於菊を産ませています。

小田原攻めで秀吉に同行する

1590年(天正18)2月、秀吉は小田原征伐に出発しました。(信繁(幸村)24才)
この戦いに真田昌幸と信幸は、前田利家と上杉景勝の連合軍の先鋒として参戦しました。
秀吉のお付きとして信繁(幸村)は、秀吉に小田原へ随行しました。

この時に、信繁(幸村)が秀吉のもとから実家へ戻り、父昌幸や兄信幸とともに北条討伐での松井田城・箕輪城攻略に参戦したという説もあります。
どちらにしても、北条討伐が真田信繁(真田幸村)にとっての初陣だったようです。

大谷吉継の娘である利世と結婚する

1594(文禄3)年頃、信繁は利世(大谷吉継の娘)と結婚しました。

1594(文禄3)年11月、信繁(幸村)は兄と共に官職が与えられ、従五位下左衛門佐になり、豊臣姓の名乗りを許されました。

朝鮮出兵では豊臣氏の組織内部での雑務に追われていたようです。

1598(慶長3)年8月13日、秀吉が伏見城で病死しました。(秀吉享年62才)
このとき兄信幸は伏見城にいましたが、信繁(幸村)もいた可能性はあります。

トップ戦国真田データベース真田氏一族藩主系真田信繁(真田幸村)>沿革1
ろくもんせんどっとこむ トップページへ 真田氏データベース トップページへ ルーツ 家紋 歴代藩主 一族 系図 年表 親戚 家臣 勢力範囲 合戦遍歴 関連伝説 真田十勇士 有力者データベース 用語データベース サイトインフォメーション トップへ