父昌幸が小県郡を統一する少し前、1584(天正12)年4月に徳川家康と羽柴秀吉による「小牧・長久手の戦い」が起こりました。
昌幸は武田氏滅亡後は織田氏の家臣になりましたが、すぐに本能寺の変で織田信長が討たれて、この頃には家康の家臣となっていました。
家康は秀吉との対立に専念するために、それまで敵対していた北条氏と和議を結ぶため、昌幸に沼田を北条氏に渡すように命令しました。昌幸は武田氏の時代に幸隆が実力で勝ち取ったものだという思いから、この命令には従わず徳川氏と絶縁しました。
徳川氏と北条氏の駆け引きで領地を取られることを避けたい昌幸は、秀吉と和を結んでいた上杉氏を頼り、1585(天正13)年7月には上杉景勝から家臣になることを許されました。上杉氏にとって、越後の目と鼻の先で武田方の最前線で勢いを誇っていた真田氏が、徳川氏と絶縁して自分の家臣になることは徳川氏に対する牽制の意味もありました。
8月、昌幸は上杉氏に対して忠誠を示すために信繁(幸村)を人質として上杉氏に送りました。(信繁19才)
信繁は矢沢頼幸と共に上杉氏家臣である須田満親が守る海津城に入り、その後、上杉氏の本拠地である春日山城に入り、上杉景勝と面会しました。この時、信繁(幸村)や側近の矢沢頼綱だけでなく、海野氏・望月氏・丸子氏など総勢100騎程度の真田隊が上杉氏の指揮下に入り、これに対し景勝は矢代左衛門の領地である3000貫内の1000貫を信繁(幸村)に分け与えました。
信繁(幸村)の逃亡や戦死を恐れてか、上杉氏は信繁(幸村)自身の出陣を許可せず、上杉指揮下の真田隊は矢沢頼綱により指揮されましたが、景勝の出陣に従い各方面で活躍したようです。出陣は許可されませんでしたが、信繁(幸村)は自分の家臣への知行について、ある程度の裁量権はありました。
この頃、信繁(幸村)はまだ元服していなかったようで、家臣への知行安堵での書状には信繁(幸村)の幼名である弁丸の「弁」が署名されています。 |