1614(慶長19)年10月1日、片桐且元を追放し徳川幕府との戦が回避できない状態となった豊臣方は、翌日の2日には秀吉から信頼されていた大名や牢人に味方をするよう、戦に向けた戦力集めを本格的に始めました。
世の中の流れが徳川氏に向かっていたこの時点で、豊臣からの誘いに乗る大名は全く居ませんでした。
これとは逆に主を持たない牢人は報償と名声を得る為に大坂城に集まり始めました。
九度山で約14年間の幽閉生活を送っていた信繁(幸村)にも豊臣秀頼の命令を受けた大野治長から勧誘があり、その報酬として黄金200枚、銀30貫目、または50万石が約束されていたと言われています。(その前金として黄金200枚、銀30貫目、勝利した時には50万石が約束されていた。・・・との説もあります。)
この頃、幕府でも豊臣攻めのために兵を召集し始め、幕府は信濃・甲斐・関東などの諸大名に対して江戸に参陣するよう命じましたが、兄信之は病気で参陣できないことを幕府に伝えました。これに対し、10月4日に幕府は信之に嫡子である信吉を参陣させるよう命じ、信之の長男信吉と次男信政が矢沢頼幸・鎌原重宗ら重臣と共に幕府方として参陣することになりました。
10月初旬、長宗我部盛親・後藤基次・仙石秀範・明石全登ら有力牢人や大勢の無名牢人が豊臣方から金銀を受け取り大坂城に入城しました。
豊臣方となって徳川氏と戦う決意をした信繁とその嫡子である大介(幸昌)は、10月9日に九度山を出発して大坂に向かいました。
この時の逸話として、九度山がある和歌山藩主である浅野長晟(ながあきら)の目を盗んで地元の庄屋・年寄・百姓たちを残らず宴会に招待して、彼らが酔いつぶれたところで、彼らが乗ってきた馬を使って九度山を出たという話があります。しかし実際には、地元の地侍や有力者が幸村に同行しているようですから、大坂への準備に際しては地元の強力なバックアップがあったと考えられます。
この紀伊国は雑賀・根来など強力な土豪がいた場所であり、反徳川の勢力が多く、浅野氏の支配下になった後も抵抗が続いていたので、この反徳川の地元民の力が信繁(幸村)を大坂城に送り出したのかも知れません。
地元の農民は酔ってしまって気がつくのに遅れてしまったと言うことにし、浅野氏も信繁(幸村)が屋敷から居なくなっているのを発見した時には、すでにだいぶ時間が経っていたと言うことにして、信繁(幸村)を大坂へ送り出して、武士としての最後の花道を歩かせてやりたかったのでしょう。
九度山からの出発は、徳川方からの監視を潜り抜けるため、深夜から未明になったものと思われます。
この時、最初に上田から真田昌幸・信繁(幸村)とともに九度山に随行してきた家臣の中で、昌幸1周忌後も信繁(幸村)のもとに居続けた幸昌(大助)の家老である高梨内記・青柳清庵が信繁(幸村)・幸昌(大助)とともに大坂城への入城しました。信繁(幸村)・幸昌(大助)に随行した側近は、高梨・青柳に三井仁左衛門を加えて3人とする説もあります。さらに平野吉次(学文路村)・高坊常敏(中飯降村)・中橋弘高(政所別当)・小松盛長(丹生川村)ら九度山の土豪や鉄砲に使い慣れた猟師数十人も、信繁(幸村)に随行しました。
九度山を出発した信繁(幸村)の軍勢は約150人でした。
信繁(幸村)が九度山を出た2日後の10月11日、家康が駿府城を出発し、大坂へ向かい始めました。この時、父昌幸の弟である真田信尹が家康に随行しています。
九度山を出て4日後の10月11日前後に信繁と大助が大坂城に着きました。
冬の陣開戦までに上田から海野氏・望月氏・禰津氏など譜代衆数十人が大坂城に集まりました。
信繁(幸村)が大坂へ向かったとの報告を高野山文殊院から受けた金地院崇伝は、信繁が大坂に着いた日の10月13日に本多正純に伝え、翌日14には藤堂高虎にも伝えています。
信繁(幸村)が大坂城に入城したことを聞いた家康についての逸話が伝わっています。
家臣から真田が大坂城に入ったことを聞いた家康は驚き、手を添えていた木戸はガタガタと音を立てながら揺れていたそうです。
そして、家康が「それは親か?子か?」と尋ねると、家臣は「親は病死しているので、大坂城に入ったのは子の左衛門助です。」と言うと、驚いていた家康は落ち着きを取り戻したと言うことです。左衛門佐とは信繁(幸村)が秀吉から賜った官位です。 現実には、家康が昌幸が九度山で病死を知らないはずは無く、これは作り話であることは明白ですが、真田が家康にとって大変厄介な存在であることを的確に表現していると言えそうです。
一方、信之の二人の息子である信吉と信政は秀忠軍に随行して10月23日に江戸を出発しました。 |