真田信繁(真田幸村) 沿革3
秀頼が家康と対面

1611(慶長16)年3月、秀頼は家康と対面するために京都に上洛しました。
家康が秀頼と会った時の秀頼に対しての印象は、思っていたよりも好青年でこの先において手強い相手になりそうだと、家康が思ったと言う逸話が伝わっています。

父昌幸が死去する

1611(慶長16)年6月4日、真田昌幸が九度山にて逝去。65才。

この時、兄信之は昌幸を弔おうことを計画しましたが、本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得されてやめました。

昌幸が亡くなった翌年の1612(慶長17)年、昌幸の家臣は一周忌をすませ、少数の家臣を信繁(幸村)のもとに残し九度山から信之がいる上田へ帰りました。

1612(慶長17)年、信繁(幸村)は出家して「好白」を名乗り始めました。

母寒松院が死去する

1613(慶長18)年、昌幸の夫人である寒松院(信之と信繁の生母)が逝去。大輪寺に葬られました。

1613(慶長18)年8月、和歌山藩である浅野幸長が38才で病死しました。
真田氏の理解者だった幸長に変わって、その弟の長晟が家康の特命により和歌山藩主になり、これ以後は真田氏に対する監視は厳しくなったものと思われます。

鐘銘事件が発端で豊臣氏と徳川氏の軍事衝突が秒読み段階へ

徳川家康は将軍となり、豊臣氏は徳川氏の配下の一大名という位置づけになりました。しかし、豊臣方はあくまで徳川氏よりも格が上であると主張していました。大坂城には膨大な秀吉の遺産が残されており、これが淀殿や秀頼の行動を支えていました。

家康はその大坂城の金銀を豊臣氏に浪費させるために、各地の神社仏閣の建造を秀頼に勧めました。
秀頼にも支持者を増やすメリットがあった為、それに取りかかりました。その中で最も大がかりだったのが、秀吉が生前に創建した方広寺の再建でした。方広寺は大仏殿がある大規模な寺院で、まだ秀吉が存命だった1596(慶長元)年に起きた地震で倒壊していました。

1609(慶長14)年1月に起工され膨大な再建費用が掛けられた方広寺は、1614(慶長19)年の初夏にはほぼ完成し、8月3日には落慶供養(大仏開眼供養)を執り行う予定でした。
しかし、その開眼供養の直前の7月21日になって家康は秀頼にある苦情を寄せてきました。それは 方広寺境内に設けられた釣鐘に刻まれたの鐘銘に不審な点があるというものでした。鐘銘の中で「国家安康」は家康の二文字を切り刻んで呪いを掛け、その一方で「君臣豊楽」は豊臣を繁栄させる願掛けであり、これは将軍家である徳川を呪って豊臣を繁栄させる願掛けであると指摘し、豊臣は天下太平を乱す反逆者だという言いがかりを、徳川氏が言い出しました。これが世に言う「方広寺鐘銘事件」です。

7月26日になって、家康は秀頼に落慶供養の延期を命じました。これを受けて豊臣方は、 家康に弁明するために重臣の片桐且元を駿府城へ向かわせましたが、家康に面会することができず、代わって本多正純が且元に応対しました。
且元は今回の鐘銘の件に加え、牢人(主を持たす、安定した収入を持たない失業した武士。江戸中期以降は浪人。)を大阪城内に雇い入れていることを戦力増強につながるものだとして責められ、秀頼を他国へ移封することを示唆されました。
一方で、淀殿直属の使者として大野治長の母である大蔵卿局と正栄尼は7月29日に駿府城に着きましたが、こちらは家康に面会でき手厚くもてなされました。

近江土山で、且元と大蔵卿局で駿府での成果を話し合いましたが、家康の態度が急激に硬化していることを実感した且元は、「淀殿を人質として江戸へ送る」「秀頼と千姫が江戸に住む」「秀頼を他国へ移封」の3つの内どれかを受け入れなければ家康が納得しないと言うことを、大蔵卿局に言いました。

それを聞いた大蔵卿局は、自分達をもてなしてくれた家康の態度と且元からの情報が大きく食い違っていることに疑問を感じました。
そして、これは且元が家康に豊臣家を売ろうとしているのではないかと思い始めたのです。

且元より先に大坂城に帰った大蔵卿局は、且元が徳川方と内通し、豊臣家に不利な企てを進めていると、淀殿に報告後、豊臣幹部に報告しました。これを受けて9月20日に豊臣方は幹部会議を開き、一連の動きを見ていると且元が徳川氏と内通していることは明白で、討つか追放するべきだということになりました。且元と不仲だった大野治長は且元を討つべきだと主張しましたが、結局追放することを決めました。
徳川方の意志を伝達している且元を追放する言うことは、徳川との交渉を打ち切ることを意味し、これで合戦は避けられない状況になりました。
自らの身に危険が迫っていることを察知した且元は、 10月1日に大坂城から300人の軍勢に守られながら退去し、居城である茨木城に入りました。
豊臣方の一部は茨木城まで追いかけましたが、且元へ多くの応援兵が到着し、大坂城へ退却しました。

豊臣方より加勢の要請、大坂城に信繁が入る

1614(慶長19)年10月1日、片桐且元を追放し徳川幕府との戦が回避できない状態となった豊臣方は、翌日の2日には秀吉から信頼されていた大名や牢人に味方をするよう、戦に向けた戦力集めを本格的に始めました。
世の中の流れが徳川氏に向かっていたこの時点で、豊臣からの誘いに乗る大名は全く居ませんでした。
これとは逆に主を持たない牢人は報償と名声を得る為に大坂城に集まり始めました。

九度山で約14年間の幽閉生活を送っていた信繁(幸村)にも豊臣秀頼の命令を受けた大野治長から勧誘があり、その報酬として黄金200枚、銀30貫目、または50万石が約束されていたと言われています。(その前金として黄金200枚、銀30貫目、勝利した時には50万石が約束されていた。・・・との説もあります。)

この頃、幕府でも豊臣攻めのために兵を召集し始め、幕府は信濃・甲斐・関東などの諸大名に対して江戸に参陣するよう命じましたが、兄信之は病気で参陣できないことを幕府に伝えました。これに対し、10月4日に幕府は信之に嫡子である信吉を参陣させるよう命じ、信之の長男信吉と次男信政が矢沢頼幸・鎌原重宗ら重臣と共に幕府方として参陣することになりました。

10月初旬、長宗我部盛親・後藤基次・仙石秀範・明石全登ら有力牢人や大勢の無名牢人が豊臣方から金銀を受け取り大坂城に入城しました。

豊臣方となって徳川氏と戦う決意をした信繁とその嫡子である大介(幸昌)は、10月9日に九度山を出発して大坂に向かいました。
この時の逸話として、九度山がある和歌山藩主である浅野長晟(ながあきら)の目を盗んで地元の庄屋・年寄・百姓たちを残らず宴会に招待して、彼らが酔いつぶれたところで、彼らが乗ってきた馬を使って九度山を出たという話があります。しかし実際には、地元の地侍や有力者が幸村に同行しているようですから、大坂への準備に際しては地元の強力なバックアップがあったと考えられます。
この紀伊国は雑賀・根来など強力な土豪がいた場所であり、反徳川の勢力が多く、浅野氏の支配下になった後も抵抗が続いていたので、この反徳川の地元民の力が信繁(幸村)を大坂城に送り出したのかも知れません。

地元の農民は酔ってしまって気がつくのに遅れてしまったと言うことにし、浅野氏も信繁(幸村)が屋敷から居なくなっているのを発見した時には、すでにだいぶ時間が経っていたと言うことにして、信繁(幸村)を大坂へ送り出して、武士としての最後の花道を歩かせてやりたかったのでしょう。
九度山からの出発は、徳川方からの監視を潜り抜けるため、深夜から未明になったものと思われます。

この時、最初に上田から真田昌幸・信繁(幸村)とともに九度山に随行してきた家臣の中で、昌幸1周忌後も信繁(幸村)のもとに居続けた幸昌(大助)の家老である高梨内記・青柳清庵が信繁(幸村)・幸昌(大助)とともに大坂城への入城しました。信繁(幸村)・幸昌(大助)に随行した側近は、高梨・青柳に三井仁左衛門を加えて3人とする説もあります。さらに平野吉次(学文路村)・高坊常敏(中飯降村)・中橋弘高(政所別当)・小松盛長(丹生川村)ら九度山の土豪や鉄砲に使い慣れた猟師数十人も、信繁(幸村)に随行しました。
九度山を出発した信繁(幸村)の軍勢は約150人でした。

信繁(幸村)が九度山を出た2日後の10月11日、家康が駿府城を出発し、大坂へ向かい始めました。この時、父昌幸の弟である真田信尹が家康に随行しています。

九度山を出て4日後の10月11日前後に信繁と大助が大坂城に着きました。
冬の陣開戦までに上田から海野氏・望月氏・禰津氏など譜代衆数十人が大坂城に集まりました。

信繁(幸村)が大坂へ向かったとの報告を高野山文殊院から受けた金地院崇伝は、信繁が大坂に着いた日の10月13日に本多正純に伝え、翌日14には藤堂高虎にも伝えています。
信繁(幸村)が大坂城に入城したことを聞いた家康についての逸話が伝わっています。
家臣から真田が大坂城に入ったことを聞いた家康は驚き、手を添えていた木戸はガタガタと音を立てながら揺れていたそうです。
そして、家康が「それは親か?子か?」と尋ねると、家臣は「親は病死しているので、大坂城に入ったのは子の左衛門助です。」と言うと、驚いていた家康は落ち着きを取り戻したと言うことです。左衛門佐とは信繁(幸村)が秀吉から賜った官位です。 現実には、家康が昌幸が九度山で病死を知らないはずは無く、これは作り話であることは明白ですが、真田が家康にとって大変厄介な存在であることを的確に表現していると言えそうです。

一方、信之の二人の息子である信吉と信政は秀忠軍に随行して10月23日に江戸を出発しました。

大坂城に入るも今後の方針を巡って対立が起こる

徳川方からの圧力を前に、秀吉恩顧の大名のことごとくが豊臣方からの勧誘を断って徳川方につく状況でしたが、徳川からの圧力が比較的効かない有力牢人は大坂城に集まりました。

豊臣方からの勧誘で集まった有力牢人は、長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)・真田信繁(幸村)・毛利勝永(森勝永)・仙石秀範・後藤基次・明石全登(あかし てるずみ、あかし たけのり)らです。
(大名扱いである長宗我部盛親・毛利勝永・真田信繁を三人衆、そこに後藤又兵衛・明石全登を加えて五人衆とも言われていました。)

大坂城に集まった有力牢人に対して豊臣方幹部は、その個人的な能力だけではなく、昔の家臣達を集めて統率できることに期待していました。これは即戦力が不足していた豊臣方にとって大変重要なことでした。

信繁(幸村)が大坂城に入場した時は、豊臣方にとって大きな戦力としての期待はあったものの、父昌幸の栄光が先行してしまい、信繁(昌幸)自身の能力には懐疑的な見方も多くあったようです。

秀頼の側近である豊臣譜代の大名は戦いに慣れておらず、彼ら有力牢人衆に頼らざるを得ませんでした。しかし、豊臣幹部の間で完全に有力牢人たちを信頼しきっていたとは言えず、立場の違いによる意見対立によって、大胆な戦略を打ち出せずにいました。

10月中旬に開かれた会議で、信繁(幸村)たち牢人衆は、まず秀頼が大坂城を出て天王寺に陣を置き豊臣軍の士気を高めることを提案します。さらに信繁(幸村)と勝永は京都の伏見城に進撃し、京都に火を放った後、宇治と瀬田に布陣し、徳川軍を待ち受けます。一方で 盛親と基次は大和路を東に進み、徳川軍を食い止めます。
そうすることで、豊臣恩顧の大名が多くいる西国と徳川方が多い東国を分断し、徳川方になびいている大名を豊臣方に引き入れて大坂城に戦力を結集させようと言う思惑でした。

それに対し、治長など豊臣幹部は秀頼の出陣は論外だと主張、さらに籠城することが現状では最も有利だと結論づけたため、徳川方の体制が整わない今を狙って出撃したいという牢人衆の意見は、秀忠の側近である大野治長ら重臣によって却下されて、豊臣軍は大坂城に籠城することになりました。

豊臣方からの要請で大坂城に入った信繁でしたが、豊臣幹部の間で信繁に対する評価は複雑でした。
関ヶ原合戦での戦功で評価されている一方で、兄信之を通じて徳川方と内通し裏切り行為をするのではないかとの不信感もあったのです。信繁(幸村)が提案した大胆な戦略が受け入れられなかった背景には、こうした疑心暗鬼が大阪城内に渦巻いていたことを表していました。

11月上旬、大坂城に集まった牢人は10万人を超えました。

大坂城に真田丸を築く

大坂城から出撃することを断念した信繁は、籠城に備えて大坂城の弱点を補う作戦を提案しました。これは昌幸から受け継いだ自分の持ち味を生かす意味もありました。
大坂城は攻めにくい地形に築かれており、西に横堀、北は天満川、東は大和川・平野川が流れ、さらに自然の河岸段丘を生かした高石垣や土塁に守られていました。しかし、南側の総構えは空堀や土塁で囲われているだけと言う、他の部分に比べて守りがやや手薄な構造になっていました。
信繁は今の豊臣の戦力では、徳川の猛攻で南側の守りを突破される危険性があると感じ、大坂城の弱点である総構え南東部に出丸を築くことを思いついたのです。
豊臣幹部は有効な籠城策として、信繁(幸村)からのこの出丸建造の申し出を受け入れました。
これが後に大坂冬の陣で大きな戦功を出すことになる「真田丸」です。

「真田丸」は大坂城本丸から南東に約2キロメートル、総構えの南東端付近に築かれ、南北ともに約200メートル程の規模でした。周囲に空堀と土塁を築き、土塁の上には鉄砲狭間を備えた城壁をめぐらしました。
このような出丸は、籠城する場合に威力を発揮する城郭施設で、戦国時代では特に武田氏が好んで城郭に採用していました。真田氏は信繁(幸村)の祖父幸隆と父昌幸が武田氏に仕えていたので、それが信繁(幸村)にも受け継がれていた可能性が大きいです。
真田丸には真田隊約5000人が籠もりましたが、信繁(幸村)や昌幸の旧家臣たちが短期間で軍事訓練で牢人たちを指導し、実戦で十分な働きができる状態にしていきました。
伊木遠雄・御宿政友の他、和久半左衛門、久嶋頼母、戸田兵庫、伊藤修理ら有力牢人も信繁(幸村)を大将にして真田丸に籠もりました。

こうして、実戦の体制が整っていった真田隊は真田丸の南方にある篠山にも柵を巡らして、ここからも鉄砲で攻撃ができる体制も整えました。

豊臣方の真田隊は甲冑・旗・幟・指物など全ての武具を赤一色で統一し、六文銭の旗印を使われなかったと言われています。これは、徳川方である兄信之やその息子達の立場に気を遣ったからだと思われます。
武具などを赤一色で統一する「赤備え」は武田氏の家臣である飯富虎昌が始めたもので、その後武田家臣の間で山形昌景などが真似して一部の猛将の間で広がっていったスタイルです。
この武田氏から派生したスタイルを用いたところにも信繁(幸村)のこだわりがあったと考えられます。

ちなみに豊臣幹部は大坂城の西方海岸にある穢多ヶ島(えたがしま)にも砦を築き、そこは明石全登に守らせました。

信繁(幸村)が出丸を作り、そこを守る事になった背景や理由は諸説あります。それらに共通したことは、兄信之が徳川家康やその重臣である本多氏と近い関係であることに対して豊臣方の一部が猜疑心を抱いているというものです。
大野長治が後藤基次に対して、「信繁(幸村)が出丸の担当を買って出たのは家康と内応しているしているからでないか」とに相談しましたが、基次に「信繁(幸村)は信義を守る男だ」と言われ諭されたという逸話が伝わっています。
さらに信繁(幸村)自身が豊臣内部からの雑音から逃げるために出丸に籠もったとか、信繁(幸村)を信頼できない豊臣方は万が一信繁(幸村)による謀反が起きた場合に備えて、真田丸の背後の総構えに1万人を配備したという逸話なども伝わっています。

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