徳川方の真田丸付近の布陣は、真田丸正面(南側)には前田利常隊、東側に南部利直隊・小出吉英隊・水谷勝隆隊、西側は井伊直孝、その間を埋めるように松倉重政隊・榊原康勝隊・桑山一直隊・吉田重治隊・脇坂安元隊・広沢広高隊がいました。
大坂城の総構えや真田丸の堀から約1500メートルの所には、豊臣方からの銃弾を避けるために竹を束ねた縦が、徳川方によって隙間無く立てられていました。
12月2日、大坂城を包囲している徳川方は大砲の射程距離を有効に生かす為に、城に向かって前進し始めました。この時、家康は「急進してはならぬ。直接攻撃に備えて堀を作り、土塁を築いた上で大砲で攻撃せよ。」 と命令し、真田丸正面まで前進した前田隊も砲撃用の簡易砦を築き始めました。
信繁(幸村)は戦線に張り出している篠山などから配下の部隊を出撃させて、土木作業に多くの人員を割いてしまっている前田隊を攻撃し、前田隊に大きな損害を与えました。
12月3日、徳川方による総攻撃が迫っていることを感じた後藤基次は大坂城本丸に出向いて豊臣幹部に報告し、遊軍を各方面に割り振って防備を固めることを提案しました。これにより、豊臣方の陣列の一部が再編されました。この日まで暫くの間、真田隊は真田丸の南方にある篠山で、散発的に城へ接近してくる徳川方を迎え撃っていました。
1614(慶長19)年12月4日未明、加賀の前田利常の家老である本多政重と山崎長徳が指揮する約5000人の前田隊が、総構えへの攻撃路を作るため真田隊が陣取っている篠山を攻めました。しかし、豊臣方は事前に徳川方の動きを察知し、真田隊はすでに篠山から真田丸に退却していました。豊臣方が弱気になって逃げたのではないかと考えた前田隊は、そのまま真田丸東側まで進みました。
前田隊が真田丸の空堀際まで進んだところで、真田丸の中から挑発が始まりました。前田隊の一部が、その挑発に乗り気勢を上げ始め、防御用の竹束や鉄盾を用意が不十分なまま、前田隊は軍勢の規模で真田丸を潰してしまうとして一斉に攻め始めました。
後方からその様子を真田丸南西から見ていた井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎の各隊も、徐々に真田丸西側と総構え八丁目口を攻め始めるようになりました。
真田丸後方の城内で石川康勝隊の一部が誤って火薬桶に火縄を落とす事故を起こしました。大阪城内から大きな爆発音と煙が出たため、徳川方は事前に画策していた豊臣方にいる内応者が動き出したのだと勘違いをし、徳川方の突入の勢いが増しました。
真田丸や総構えの内側で、この期が来るのをじっと待っていた真田・長宗我部・木村など豊臣方各隊は、空堀の周囲に設けた柵に押し寄せ、空堀の中に突入して来た徳川方に向かって一斉射撃を始めました。
防御用の竹束や鉄盾を用意が不十分なままでも大軍の勢いで真田丸の防御を破って進めると考えていた徳川方の最前線の部隊は、真田丸や総構え内部からの思わぬ反撃により、多くの死者を出しましたが、犠牲者が出ている先発隊は後発隊が押し出てくるので退くに退けず、不利な状況下で応戦し死傷者が続出、そしてそれを挽回しようと次々に後発隊が出て援護しましたが、挽回できずに更に犠牲は広がっていきました。
特に前田隊は統率が不十分で闇雲に突入して行たっため損害が甚大で、本多正重が体制を立て直そうとしても多くの指揮官が戦死し、統率することは非常に難しい状況に陥っていました。
豊臣方が優勢な状況を更に後押しするため、信繁(幸村)の長男である幸昌(大介)は伊木遠雄とともに500人の兵を率いて真田丸から出撃し、寺沢隊と松倉隊を破り、さらに松平忠直隊にも大きな損害を加えました。
家康は再三にわたって、各隊に対して攻撃中止と戦線後方への撤退を命令していましたが、早朝から続いた戦闘状態は正午を過ぎてもなかなか収まりませんでした。
午後3時頃になって、ようやく徳川方は撤退を始め、午後4時頃に撤退が完了しました。
この攻撃によって徳川方は、前田隊約300騎、越前隊約480騎が討ち死にし、一般兵の戦死者数は1万人とも1万5000人とも言われる程、甚大な損害を出しました。
一方の大坂方は籠城戦が大成功を収め、戦死者数は徳川方と比べて大幅に下回りました。
家康は統率を執ることができず多数の戦死者を出した前田氏などの諸将に対して激怒した一方、井伊・藤堂の両隊は攻撃と防御のバランスが取れたことが評価されたようです。
こうして、真田丸での攻防戦は豊臣方の大勝利で収束し、これが家康を豊臣方との和睦に向かわせたと言われています。 |