真田信繁(真田幸村) 沿革4
大阪冬の陣はじまる

11月12日、豊臣方の槙島重利が堺を襲撃し、鉄砲や弾薬を奪いました。この時、豊臣方から追放され徳川方になった片桐且元は忠誠を表すため、これを撃退する救援隊を送りましたが、槙島隊に破れました。

11月15日頃には徳川軍が大坂城を囲むように大きな群れとなって現れ始めました。
11月17日、将軍である徳川秀忠が率いる徳川本隊が天王寺へ到着し、これにより徳川軍の集結がほぼ完了しました。

信吉と信政は徳川氏の重臣である酒井家次の指揮下で、青屋口住吉において布陣しました。

11月18日、家康と秀忠は茶臼山に設けられた家康の本陣で、会議を開きました。そこで天王寺・今宮・穢多ヶ島(えたがしま)・伝法・岡山・今福・守口など13カ所に前線基地になる城を築いて、時間を掛けてしっかりした包囲網を作りながら攻めていくことを決めました。

11月19日、明石全登と大野治房が守る豊臣方の穢多ヶ島砦に、徳川方の蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の各隊が攻め入りました。この時、明石全登が大坂城に出向いていて留守だった為、穢多ヶ島砦は比較的簡単に徳川方によって陥落しました。

11月26日、徳川方は今福に前線基地の城を作る為、佐竹義宣隊が今福に、上杉隊が鴨野に進撃しました。
今福に進軍した佐竹隊は木村重成と後藤基次など豊臣方からの反撃に遭い、先鋒である渋江政光が討ち死にしました。
一方、鴨野を攻めた上杉隊は、豊臣親衛隊七隊長の一人である渡辺糺からの反撃に遭いますが、これを撃退し、今福で苦戦していた佐竹隊の支援も行いました。そして、豊臣方は大阪城内へ退却しました。

家康が11月28日の朝に福島方面を船で巡視という情報が、信繁(幸村)のもとへ入りました。信繁は家康を討ち取る好機と考え、あえて豊臣上層部には相談をせず、独断で行動しましたが、基次にだけは大介が手紙で伝えました。

11月27日午後10時、信繁(幸村)は鉄砲隊など数十名を率いて天満川を下り、博労淵に茂る葦(あし)の中に紛れて、家康が通りがかるのを待ちました。この日は天候が悪く、霰(あられ)混じりの雨が降り、気温も大変低い状態でした。家康の体調を気遣った本多正信や天海和尚は、家康自らの巡視を取り止め、代わりに本多正純を行かせました。
28日朝、巡視に来たのが家康ではないと知った信繁(幸村)は博労淵から大阪城へ戻りました。

11月29日、蜂須賀至鎮・池田忠雄・石川忠総の徳川方の各隊が、豊臣方である薄田兼相が守る博労淵砦を攻撃しました。兼相は前夜から砦を留守にしていたので砦内の統率がとれず、徳川方は比較的簡単に博労淵砦は陥落しました。
つづいて、大野治胤が守る野田砦と福島砦も徳川方によって陥落しました。

11月30日、豊臣方は船場と天満に火を放って、総構えの外にいた兵を全て大阪城内へ入れました。
大坂城の総構えの外にに設営されていた豊臣方による砦は、徳川方により全て撤去されました。
これにより、真田丸だけが総構えより外に出ている唯一の豊臣方の軍事施設になりました。

真田丸での激しい攻防

徳川方の真田丸付近の布陣は、真田丸正面(南側)には前田利常隊、東側に南部利直隊・小出吉英隊・水谷勝隆隊、西側は井伊直孝、その間を埋めるように松倉重政隊・榊原康勝隊・桑山一直隊・吉田重治隊・脇坂安元隊・広沢広高隊がいました。

大坂城の総構えや真田丸の堀から約1500メートルの所には、豊臣方からの銃弾を避けるために竹を束ねた縦が、徳川方によって隙間無く立てられていました。

12月2日、大坂城を包囲している徳川方は大砲の射程距離を有効に生かす為に、城に向かって前進し始めました。この時、家康は「急進してはならぬ。直接攻撃に備えて堀を作り、土塁を築いた上で大砲で攻撃せよ。」 と命令し、真田丸正面まで前進した前田隊も砲撃用の簡易砦を築き始めました。

信繁(幸村)は戦線に張り出している篠山などから配下の部隊を出撃させて、土木作業に多くの人員を割いてしまっている前田隊を攻撃し、前田隊に大きな損害を与えました。

12月3日、徳川方による総攻撃が迫っていることを感じた後藤基次は大坂城本丸に出向いて豊臣幹部に報告し、遊軍を各方面に割り振って防備を固めることを提案しました。これにより、豊臣方の陣列の一部が再編されました。この日まで暫くの間、真田隊は真田丸の南方にある篠山で、散発的に城へ接近してくる徳川方を迎え撃っていました。

1614(慶長19)年12月4日未明、加賀の前田利常の家老である本多政重と山崎長徳が指揮する約5000人の前田隊が、総構えへの攻撃路を作るため真田隊が陣取っている篠山を攻めました。しかし、豊臣方は事前に徳川方の動きを察知し、真田隊はすでに篠山から真田丸に退却していました。豊臣方が弱気になって逃げたのではないかと考えた前田隊は、そのまま真田丸東側まで進みました。
前田隊が真田丸の空堀際まで進んだところで、真田丸の中から挑発が始まりました。前田隊の一部が、その挑発に乗り気勢を上げ始め、防御用の竹束や鉄盾を用意が不十分なまま、前田隊は軍勢の規模で真田丸を潰してしまうとして一斉に攻め始めました。
後方からその様子を真田丸南西から見ていた井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎の各隊も、徐々に真田丸西側と総構え八丁目口を攻め始めるようになりました。

真田丸後方の城内で石川康勝隊の一部が誤って火薬桶に火縄を落とす事故を起こしました。大阪城内から大きな爆発音と煙が出たため、徳川方は事前に画策していた豊臣方にいる内応者が動き出したのだと勘違いをし、徳川方の突入の勢いが増しました。

真田丸や総構えの内側で、この期が来るのをじっと待っていた真田・長宗我部・木村など豊臣方各隊は、空堀の周囲に設けた柵に押し寄せ、空堀の中に突入して来た徳川方に向かって一斉射撃を始めました。

防御用の竹束や鉄盾を用意が不十分なままでも大軍の勢いで真田丸の防御を破って進めると考えていた徳川方の最前線の部隊は、真田丸や総構え内部からの思わぬ反撃により、多くの死者を出しましたが、犠牲者が出ている先発隊は後発隊が押し出てくるので退くに退けず、不利な状況下で応戦し死傷者が続出、そしてそれを挽回しようと次々に後発隊が出て援護しましたが、挽回できずに更に犠牲は広がっていきました。
特に前田隊は統率が不十分で闇雲に突入して行たっため損害が甚大で、本多正重が体制を立て直そうとしても多くの指揮官が戦死し、統率することは非常に難しい状況に陥っていました。
豊臣方が優勢な状況を更に後押しするため、信繁(幸村)の長男である幸昌(大介)は伊木遠雄とともに500人の兵を率いて真田丸から出撃し、寺沢隊と松倉隊を破り、さらに松平忠直隊にも大きな損害を加えました。

家康は再三にわたって、各隊に対して攻撃中止と戦線後方への撤退を命令していましたが、早朝から続いた戦闘状態は正午を過ぎてもなかなか収まりませんでした。
午後3時頃になって、ようやく徳川方は撤退を始め、午後4時頃に撤退が完了しました。

この攻撃によって徳川方は、前田隊約300騎、越前隊約480騎が討ち死にし、一般兵の戦死者数は1万人とも1万5000人とも言われる程、甚大な損害を出しました。
一方の大坂方は籠城戦が大成功を収め、戦死者数は徳川方と比べて大幅に下回りました。

家康は統率を執ることができず多数の戦死者を出した前田氏などの諸将に対して激怒した一方、井伊・藤堂の両隊は攻撃と防御のバランスが取れたことが評価されたようです。

こうして、真田丸での攻防戦は豊臣方の大勝利で収束し、これが家康を豊臣方との和睦に向かわせたと言われています。

冬の陣の最中、信繁(幸村)への勧誘工作が行われる

12月5日夕方、大坂城内で織田頼長の家臣が喧嘩騒ぎを起こしました。徳川方の藤堂隊が、この騒ぎに便乗して防護柵を破って城内に進入しましたが、長宗我部隊によって撃退され、徳川方による進入は成功しませんでした。

12月13日(12月6日との説も)、家康が茶臼山に着陣しました。

大坂の役が始まる直前からあったと思われる徳川方による信繁への勧誘工作は冬の陣の最中にも行われていました。
勧誘の責任者には本多正純が選ばれ、直接交渉は信繁の叔父で徳川方の大坂陣中目付役である真田信尹が担当することになりました。
信繁(幸村)が戦闘中に徳川方と直接やり取りすると言うことは、豊臣方から内通者として見られる危険性がありましたが、信繁は徳川方との交渉に応じました。
なぜ、信繁(幸村)は交渉に応じたのか?それは徳川方の交渉最高責任者が本多正純だったからだと言う説があります。昌幸は正純の父正信と親交があり、関ヶ原合戦の戦後処理で家康が昌幸と信繁(幸村)を処刑せずに九度山へ幽閉させたことについて、家康の側近だった正信の働きがあったと言われています。九度山へ幽閉されていた時も、昌幸は正信が家康に赦免の許しを促してくれていると信じて、その日を心待ちにしていました。残念ながら、昌幸の願いは実現しませんでしたが、父親同士の信頼関係が信繁(幸村)と正純の間にも続いていたようです。

真田丸での激戦から7日後の12月11日、徳川方の使者である信尹は信繁に10万石の領地を与えることを持ちかけましたが、信繁は「私たちは牢人として、高野で乞食(こじき)同然の暮らしをしていたのにも関わらず、秀頼様は私を召し抱えて曲輪の大将にまで命じてくださりました。ありがたく幸せなことだと思っているので、ここを出ることは到底できません。和睦が成立すれば、その時にたとえ1000石でもご奉公します。」と言って勧誘を断りました。
「我等牢人仕り高野にて乞食の体に罷り成り候処を秀頼様より召し出だされ一曲輪仰せ付けられ有り難き仕合わせに候の間、中々罷り出で申す事罷り成らず候」

12月14日、本多正純は前田利常の家老である本多政重に対し、信繁の叔父である真田信尹と良く協力して信繁(幸村)を徳川方に引き入れるように工作を行うように命令し、勧誘が成功した時、信繁(幸村)の身柄は正純が預かるとも伝えています。

トップ戦国真田データベース真田氏一覧藩主系真田信繁(真田幸村)>沿革4

ろくもんせんどっとこむ トップページへ 真田氏データベース トップページへ ルーツ 家紋 歴代藩主 一族 系図 年表 親戚 家臣 勢力範囲 合戦遍歴 関連伝説 真田十勇士 有力者データベース 用語データベース サイトインフォメーション トップへ