真田信繁(真田幸村) 沿革5
和議で停戦、大坂城の防御が大幅に削り取られる

家康は大きな堀や高い石垣や土塁に守られた大坂城を力ずくで攻略することは最初から考えていませんでした。
開戦前は豊臣方から譲歩を引き出しつつ、従わなかった場合には開戦をさせるように仕向ける為に片桐且元を利用しました。
開戦後は淀殿の2人の妹である常高院と秀忠の正室である江与、さらに大野治長の弟である大野治純を通じて、豊臣方に停戦条件について譲歩を促していました。
そうしたルートを通じて徳川方は大軍で大坂城を包囲しながら、豊臣方の幹部である大野治長や織田長益らに停戦協定を結ぶ説得工作をしていました。

12月16日、徳川方からの砲撃によって天守と千畳敷御殿に玉が命中しました。これに驚いた淀君を中心とした女性たちの意見によって、豊臣幹部は徳川方との和解に一気に動き出しました。これは開戦当初より、家康から要求されていた交渉のテーブルに着くことに豊臣方が応じることを意味し、豊臣方にとって不利な条件が提示されることは明らかでした。
信繁(幸村)など牢人衆はこれに反対しましたが、織田有楽や大野治長らは「牢人衆は戦を続けなければ牢人に戻ってしまうのを恐れている。停戦している間に家康は老いて死んでいく。そうすれば、秀頼による統治が実現するはず。」と、一歩も譲りませんでした。
信繁(幸村)は治長らに対して、家康を甘く見ると痛い目にあるので注意するように忠告しましたが、結局は治長に従わざるを得ませんでした。

12月19日、徳川方から停戦条件が示されました。
 1.牢人の解雇はしなくても良い
 2.秀頼の知行はそのままで大坂城に居て良い
 3.淀殿の江戸上洛はしなくても良い。
 4.豊臣方への処分を軽くする代わりに大坂城の総堀の埋め立てを行う。

家康は一見して豊臣方に譲歩した様に見える停戦協定を結びましたが、真の狙いは大坂城を難攻不落の城にしていた堀や石垣などの防護設備の破壊だったのです。
大坂城は北には天満川が流れ、西は海、東と南は大規模な高石垣や土塁と堀に囲まれた難攻不落と言われた城だったからです。

秀吉の遺産である大坂城と膨大な資金によって、秀頼を中心とした豊臣氏の抵抗が続いていることに、家康は苛立っていました。
多くの犠牲を出してまで大坂城を無理矢理攻めるより、豊臣方から譲歩を引き出して停戦させ防護設備を取り除き、言わば豊臣氏の延命装置である大坂城の機能を停止させることで、豊臣方が籠城できないようにし、徳川ペースの交渉の場に引きずり出す事が得策だったのです。

豊臣方は大坂城の守りの政治的な重要性とセイン略的な重要性について認識していなかったのか、それとも堀の埋め立てを受け入れるしかなかったのか、どちらにしても豊臣方は大坂城の総堀など総構えの破壊を受け入れました。

12月19日(20日、22日との説も。)に徳川方と豊臣方は和議を結びました。

12月20日、家康は松平忠昭、本多忠政、本多康紀を大坂城の堀の埋め立て奉行に任命しました。

12月21日と22日に誓約書を交換して和議が成立しました。

12月22日、家康は茶臼山を出発し、夕方には京都の二条城に入りましたが、信繁はこの時に家康を討つ絶好のチャンスだと秀頼に進言しましたが、淀殿の反対により実行されませんでした。
一方の徳川方でも伊達政宗や藤堂高虎など今回の停戦合意に納得できない大名たちが家康に戦闘再開を進言しましたが退けられました。

12月24日(27日説もあり)、停戦合意に基づいて堀の埋め立てが開始されました。 しかし、徳川方は合意の範囲である大坂城三の丸の堀だけではなく、二の丸の堀まで埋めていきました。これには豊臣方は約束違いであると猛反発しましたが、徳川氏のペースに逆らう力はありませんでした。
治長が埋め立て奉行に抗議したところ、「総堀とは全ての堀のことである。」と言って作業をそのまま進めました。これに納得できない豊臣方は埋め立て作業の責任者だった本多正信や本多正純に埋め立ての中止を申し入れましたが、やりとりをしている間にも堀は埋め立てられていきました。堀の石垣やその上にあった櫓のみならず、近所の住宅や墓石までも放り込みながら、猛スピードで大坂城の堀は埋められていきました。

1月3日、大坂城の堀の埋め立て作業が進む中、家康は京都の二条城を出発し駿河の駿府城に向かいました。

1615(慶長20)年1月24日、本丸以外の大坂城の堀の埋め立て作業が完了しました。
徳川方は大坂城の防備を完全に無力化する為に総構えだけでなく、なんと約1ヵ月で三の丸と二の丸の堀までも埋めてしまうという強固な策に打って出ましたが、豊臣方に堀の埋め立てを提案した時には、すでにそのつもりだったのです。

2月家康が遠江の中泉に着きました。

1月18日、秀忠は大坂城の南方にある岡山から京都に向けて出発、2月7日には家康が居る遠江の中泉に入りました。ここで、家康と秀忠、そして徳川家重臣である本多や大久保などが今後の対策方針を巡って会議を開きました。そして、家康は駿府に戻りました。

この頃、豊臣方の台所事情は大変な状況でした。
集められた牢人衆などの兵力が10万人を超えていましたが、秀頼が治めている摂津の国66万石の経済力では、秀吉の遺産があっても支えきれる限界を超えていました。
そこで、豊臣方は徳川方に石高の加増を求めましたが、これが認められる訳がありませんでした。かえって徳川方からは大和の国か伊勢の国に移るか、牢人衆を追放して戦力放棄をしろと言う要求が出ました。
これらの徳川方からの要求は停戦協定に違反するものでした。

大坂城の防備の要である堀を埋められた上に、秀頼の移封や戦力放棄を要求された豊臣方は再び一戦交える為に開戦の準備を始めました。

熱する真田信繁(真田幸村)勧誘工作の中、故郷へ手紙

冬の陣の戦闘中から続いていた徳川方による信繁への勧誘工作はさらに活発になりました。
今度は「今なら信濃一国をくださるとのことですので、味方になりませんか?」と徳川方は伝えてきましたが、それを聞いた信繁は馬鹿にするなと言って叔父信尹を追い返しました。
信濃一国は約40数万石ですが、信濃には10人程の大名が居たため、仮に信繁(幸村)に与えるためには大掛かりな移封が必要でした。信繁(幸村)は現実離れした恩賞の大きさで惹き付けようとする徳川方のやり方に疑念を持ち反発しました。

信繁(幸村)にとって、冬の陣が停戦されて大坂城の堀の埋め立てが完了した頃から、次の戦で命を絶つ予感をしつつも国元の人々と手紙のやり取りをしていました。
1615(慶長20)年1月24日には小山田茂誠へ嫁いだ姉の村松へ、2月2日には義兄の小山田茂誠へ、2月10日には娘すえの夫である石合十蔵へ、3月10日には小山田氏へ近況報告・礼状などを送っています。

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