5月7日午後、幸村は毛利隊の暴走で作戦通りに事が運ばず戦線が混乱してしまい、家康を討ち取る事が困難になった事を一緒に戦っていた伊木遠雄に言い、息子の大介(幸昌)を呼びました。
信繁(幸村)は、「あとは命が尽きるまで戦い、家康の本営に突入して家康の首を取るしかないが、お前は大坂城に戻って秀頼様と生死を共にしなさい。」と大助(幸昌)に言って、大助を秀頼がいる大坂城へ戻らせました。
甲冑・旗指物など全ての武具を赤一色で統一していた真田隊(2000人)は大谷・渡辺・伊木の各隊の協力を得ながら松平忠直隊(15000人)に突入しました。
毛利隊は本多隊・小笠原隊に続いて秋田・立花隊も撃破しました。
徳川方は混乱していました。住吉街道を今宮へ進んだ浅野隊を見て、徳川方の一部で「浅野が豊臣方へ寝返った。」という噂が広がったためです。
徳川方は各隊が争って前進するなか、逆に逃げる者も出てきて、大変混乱していました。
家康を守る為に本陣にいた重臣は小栗正忠ただ1人でした。(家康本陣にいたのは、本多正重と金地院崇伝だったとう説もあります。)
信繁(幸村)は2000の兵で松平直忠隊を突破したあと、家康隊を蹴散らして本営に突入しました。
家康本陣は3度も真田隊に追われたため、馬印を隠しながら12キロメートルも移動し、一時は家康自身が切腹を覚悟したとも言われています。 家康本陣が追われて移動したのは三方原合戦以来でした。
信繁(幸村)は家康の間近まで迫りましたが、事態を知った徳川方の救援部隊が到着して形勢は逆転し、信繁(幸村)は本陣から撤退しました。
徳川方の忠直隊が茶臼山を占領しました。
豊臣方の士気は低下し、大坂城方面へ後退を始めましたが、信繁(幸村)は徳川方への激しい攻撃を続けていました。
午後2時頃、信繁(幸村)は徳川方からの抵抗に疲れ、安居神社で休息をしていたところを松平忠直の鉄砲隊に見つかり、そこに属している西尾宗次(にしお むねつぐ)(西尾仁左衛門、久作)に討たれました。(信繁(幸村)享年49才)
大野治房・治胤たちは秀忠の本営を攻撃しました。秀忠が自ら槍を持って迎え撃とうとしていた頃、徳川方の黒田隊と加藤隊が救援に駆けつけ、豊臣軍は撃退されました。
豊臣方はあと一歩の所で家康と秀忠を討ち取れる状況になりながらも、力及ばず撃退されたのです。
徳川方の本多康紀や片桐などの各隊が豊臣方の側面を攻撃し、豊臣方は大きな損害を出しました。
各戦線で敗れた豊臣軍は玉造口方面に退却しました。
秀頼は5月7日朝から天王寺口へ出て戦おうと、本丸の専門にあたる桜門付近で準備をしていましたが、徳川方から講話の使者が来たり、内通者が大阪城に放火するという噂が出るなど、秀頼が城から離れられない状況が続きました。
秀頼が出撃できずにいる内に、大野治長や真田大介らが大坂城に戻り、真田信繁(幸村)が最期の突入に向かった事を秀頼に伝えました。
そして、天王寺口方面や岡山口方面から敗れて戻ってきた兵で大阪城は混乱状態になりました。
秀頼は出撃しようとしましたが、速見守久の説得に応じて天守へ行きました。
内通者が大阪城の台所に火を放ちました。強風によりその火はたちまち御殿や天守などに燃え移りました。
徳川方は先を争って城内へ侵入し、午後5時頃に二の丸を制圧しました。この頃になると、城内の組織的抵抗はすでに無くなっていました。
旗奉行の郡宗保(こおりむねやす(郡主馬宗保こおりしゅめむねやす))と津川左近(つがわさこん)が秀頼の旗を千畳敷御殿の畳に立てて自害し、渡辺糺(わたなべただす)もここで自害しました。
真野頼包・中島氏種・成田兵蔵らも自害しました。
大野治房・大野治胤・長宗我部盛親・仙石宗也などは脱出しました。
本丸の主要部分が火災に見舞われたため、秀頼・淀殿・千姫らは速水守久の誘導で芦田郭に入りました。
治長は家康に秀頼と淀殿の除名嘆願をしてもらうために千姫を大坂城外に脱出させました。
脱出した千姫を徳川方の坂崎成正が発見し、茶臼山に陣していた家康のもとへ護送しました。 |