真田昌幸の二男を本来の「信繁」ではなく、なぜ「幸村」という名前で呼ぶようになったのか、その理由については諸説あり特定できていませんが、3つ程あります。
1)伊達綱村の「村」と真田氏の諱である「幸」を組み合わせた
真田氏を題材にした軍記物の小説を作る作家が仙台伊達氏に仕えていた仙台真田氏に取材を行った際、当時の仙台藩主だった伊達綱村から一字をもらい、真田氏の諱である幸と組み合わせたという説。
しかし、伊達綱村が綱基から改名した時が1678年であるため、1672年に成立したと言われる難波戦記よりも後であるため、難波戦記の成立時期が別でない限りこの説は間違いである可能性があります。
2)姉である「村松殿」の「村」と真田氏の諱である「幸」を組み合わせた
難波戦記の作者が、信繁の姉である村松殿の「村」と真田氏の諱である「幸」を組み合わせたという説。
しかし、明確な根拠とは言えません。
3)大坂の陣で「信繁」が「幸村」に改名した
大坂城入場前に昌幸の子供という立場を強調するために、「幸」の字を入れた幸村に改名し、本当に幸村という名前を使ったとする説。
しかし、これについて明確な根拠は無く、大坂城内から上田へ出したと言われる書状には「信繁」の署名があるため、この説が正しい可能性は低いようです。
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