秀吉が亡くなった後、家康が権力を掌握していきました。上杉氏以外の五大老は事実上屈服しましたが、それでも徳川氏と対立していったのは五奉行の一人だった石田三成でした。
1600(慶長5)年6月16日、家康は会津に籠もって上洛命令に従わない上杉氏を討伐するという名目で、大坂を出て経由地の江戸を目指しましたが、家康は自分が近畿から離れれば三成が反徳川の軍隊を集めて挙兵する事は分かっていました。
7月上旬、石田三成は大坂城へ入り、秀頼を擁立して兵をあげました。
7月19日、西軍は東軍が守る伏見城を攻撃し、関ヶ原の決戦に向けて大きな戦闘が始まりました。
7月21日、父昌幸へ石田三成から密書が届き、義父昌幸と義弟信繁(幸村)は西軍にはいる事を決めました。
昌幸と信繁(幸村)が徳川方から離脱し、豊臣方として体制を整える為に上田へ向かう途中で、沼田城に寄りました。小松姫には将軍秀忠の本隊にいた夫信幸(信幸)から義父弟が豊臣方に入ったことを手紙で伝えられており、沼田城内で昌幸への離反者が出て混乱が起きないように、沼田の家臣達から妻や子を人質として出させました。昌幸が「これからは敵味方に分かれるので、孫の顔を見る事ができるのは今回が最後になるかも知れない。だから、城内に入れて欲しい。」と申し出ましたが、小松殿は沼田城を乗っ取られる事を警戒して、開門する事はありませんでした。この事は後に家康から高く評価され、義父弟が豊臣方に入った事で徳川方で苦しい立場になった夫信幸にとって救いになりました。(小松殿27才、信幸35才)
9月2日、夫信幸が案内役を務める将軍秀忠の徳川本隊が小諸城に着陣しました。
9月15日、ついに石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が衝突する関ヶ原の戦いが起こりましたが、この1日で勝負が付きました。裏切りが続出した西軍は、東軍に敗れたのです。
真田討伐に手こずり失敗した秀忠は、この時点で秀忠は関ヶ原から遠く離れた木曽付近にいたため、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。将軍秀忠は徳川本隊だったにも関わらず戦いに間に合わないという失態をしてしまったのです。
関ヶ原合戦の戦後処理で義父弟である真田昌幸と真田信繁(幸村)には切腹の命令が下りましたが、夫信幸のために命だけは助かるように実家の本多氏に手を回し、様々な方面に働きかけました。その結果、義父弟は処刑を免れ九度山に幽閉される事になりました。幽閉先の高野山についた昌幸たちは、高野山蓮華定院など滞在場所を数カ所転々と変えた後、蓮華定院の計らいで九度山に落ち着きました。
関ヶ原の戦いで東軍として徳川方についた信幸に対し、幕府は本領である吾妻郡を含んだ沼田領に加え、家康から約束されていた上田領6万5000石を与えました。
9万5000石の大名になった信幸は徳川氏に忠誠を誓うため、名前から幸の字を消して、信幸を信之に改めました。
義父弟の幽閉先での生活は大変困窮したため、これを援助するために度々金品を送っていました。盆・暮れ・正月などの度に信州の名産や鮭や布製品などを送り届け、それに対し昌幸が小松に対しお礼の手紙を送っています。
1611(慶長16)年6月4日、真田昌幸が九度山にて逝去。この時、夫信之は昌幸を弔おうことを計画しましたが、本多正信から徳川氏に遠慮してあきらめるように説得されてやめました。(真田昌幸 享年65才)
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