1614(慶長19)年10月9日、豊臣方として徳川氏と戦う決意をした叔父信繁とその嫡子である大介(幸昌)は九度山を出発して大坂に向かい、4日後の10月13日には大坂城に到着しました。
この頃、真田氏の当主である父信之は病床の身であり、出陣できる状態ではありませんでした。母小松が実家に信之が出陣できる状況でないことを伝え根回しをしてもらった結果、10月4日に出た出陣の命令書には「貴殿ご病気の場合は御息河内守(信吉)殿にご数人をつけて早々に出府されたい」という但し書きが付き、これにより真田氏の面目が保たれました。
信吉と弟の信政の2人は母小松の弟である本多忠朝隊に入りました。この時、小松は2人に随行する矢沢頼幸に「何事についても、くれぐれも気をつけてくれるように」と申しつけました。
10月23日、信吉と次男信政は秀忠隊に随行して江戸を出発しました。
大坂城の総構えの一部に真田丸が完成し、11月中旬には徳川方が大坂城の周囲に結集、本格的な衝突が始まりました。
12月16日、徳川方からの砲撃によって天守と千畳敷御殿に玉が命中し、これに驚いた豊臣上層部は12月19日に徳川方と和議を結び冬の陣は終わりました。
信吉・信政兄弟は大坂冬の陣の際、大坂城のやや東北の方向にある鴫野村付近または大坂城北方の備前島に陣を置いたと言われています。冬の陣は約2000人を率いました。
1614(慶長19)年11月26日、鴫野・今福の戦いがありました。
この時、真田兄弟は後方で待機していたようで、戦闘後に戦闘した佐竹義宣隊と配置転換をしています。
1615(慶長20)年、夏の陣は約2300人を率いました。
4月26日、徳川方の先鋒が京都を出発し大坂夏の陣が始まりました。
真田信之は病気により出陣できず、代わりに長男信吉と次男信政が出陣し、井伊直孝の指揮下へ入りました。
5月7日、徳川方は天王寺口と岡山口で豊臣方と戦闘を繰り広げました。真田兄弟は天王寺口の右翼の先鋒になりましたが、叔父信繁(幸村)は左翼との戦闘になったので、親戚対決は回避されました。真田兄弟は毛利勝永・竹田永翁(たけだえいおう)らの隊と激戦になりました。25〜29名を討ち取り、35〜39名の戦死者を出しました。
叔父信繁(幸村)が豊臣方の中核として真田丸などで活躍したことと、真田兄弟は徳川方内で比較され肩身の狭い思いをした可能性があります。豊臣方である叔父信繁(幸村)と真田兄弟ら信之側が内通しているのではないかという疑念が徳川方内からありました。成果を上げる事に焦り、自分達家の疑惑を晴らすためにも、死体の首を切って手柄に入れるようなことをせずに、犠牲者の比率が多くても正直に報告したものだと思われます。 |