1657(明暦3)年8月、父信之の隠居にともない、沼田藩は甥(兄信吉の次男)である信利に譲り、松代藩10万石の藩主になりました。この時、信政が沼田から連れてきた側近達は「沼田侍」と呼ばれ、松代藩政で強い影響力を持ちました。(信政61才)
徳川家光に随行して京都滞在中に、小野宗鑑尼(小野お通の娘である図子)との間に長男信就ができました。
松代藩主になった信政でしたが、病気が悪化して死期が近づいていることを悟り、自分の六男である右衛門佐(うえもんのすけ、後の幸道)に家督を継がせることを遺言として残しました。この時、幸道の上の4人の兄は無くなっており、長男信就は母親である小野宗鑑尼(二代目小野お通)が真田氏に入るのを遠慮したため、分家に出て旗本になりました。
松代藩主になってから約半年後の1658(万治元)年2月5日、信政は病気で亡くなりました。(信政享年62才)
長国寺に葬られ、高野山の蓮華定院にも分骨されました。
信政が亡くなった後は松代藩の家督をめぐって、信政の六男右衛門佐(うえもんのすけ、後の幸道)と沼田藩主である信直との間で相続争いが起こりました。
父信之は信政六男の右衛門佐信房(幸道)を擁立し、信吉の妻の実家である前橋城主の酒井氏と信直の妻の実家である山内氏や信政の長男真田信就などは信直を擁立しました。
最終的には信房(幸道)が家督を相続することになりました。
信政の霊屋は長国寺に建てられましたが、現在は林正寺の本堂になっています。 |