1680(延宝8)年夏、長雨や暴風雨が関東地方へ襲いました。
これにより、沼田藩は水害や冷害になり作物は不作になり沼田城にも損害が出ました。そして、江戸でも藩邸に大きな損害が出ました。
この時、江戸の大川(隅田川)に掛かる両国橋にも損害が出たので、幕府(将軍は徳川綱吉)は橋奉行である船越為景と松平忠勝に両国橋の掛け替えを命じました。
工事入札で大和屋久右衛門がで8500両にて落札しました。
大和屋はある日、江戸の小石川にある沼田藩の藩邸を訪れた際、沼田藩普請奉行の麻田権兵衛に両国橋建造に使う幕府御用木の調達を持ちかけました。
信利から倒壊した藩邸の再建を命じられていましたが、資金難で頭を悩ましていた麻田にとって、大和屋から提示された契約金の3000両はのどから手が出る程欲しかったに違いありません。
沼田は山林が豊富だったので、御用木の調達は簡単だろうと思っていたのでしょう。
麻田は塚本を通じて信利から計画実行の許可を得ました。
沼田藩が大和屋から請け負った御用木は690本で、そのうち30本はケヤキでした。このケヤキは末口2尺7寸以上、長さ9間以上10間未満、納入期限は1681(延宝9)年8月20日でした。
沼田の領民が御用木の伐採に駆り出されましたが、日頃からの重税、さらに水害で疲弊していたところに重労働を課せられ、領民の不満はさらに高まっていきました。事前の調査を十分に行う余裕が無く、手探り状態で条件に合うケヤキの探索が行われました。山奥で容易に運び出せるところではなかったり、難航を極めました。
1681(天和元)年1月、信利は5年ぶりに国元である沼田で正月を迎えました。
信利は家臣を集め、御用木の調達を急ぐように命令しました。
1681(天和元)年1月、信利の悪政に耐えかねた2人の沼田領民が直訴状を持って江戸へ向かいました。
松井市兵衛は目付、杉木茂左衛門は将軍家に訴状を持って行きました。
5月、幕府の巡検使が沼田を訪れ、藩内を視察しましたが、江戸にいた幕府幹部が状況を心配していたのか、夜になって巡検使は江戸に急飛脚を向かわせました。
8月、御用木の納期になりましたが、ケヤキについては30本無ければならない所を8本しか間に合いませんでした。
幕府は、納期を10月に延期することを許しました。
10月、延期された納期を過ぎましたが8月の分を合わせて13本しか集まっていませんでした。
延べ168,673人、食糧5200俵、金8127両を掛けましたが、納期までに江戸に着いた御用木は6本で、納期を延期した10月になっても合計で13本でした。
御用木が調達できなければ両国橋の建造はできず、延期をしても調達のめどが立たなかった事を重く見た幕府は、大和屋久右衛門を投獄しました。
10月29日、幕府は麻田権兵衛を呼びつけ、御用木が調達できなかったことについて問いました。
10月30日、幕府は奉行である船越為景と松平忠勝に閉門を命じました。
11月1日、幕府は信利に謹慎を命じました。
1681(天和元)年11月22日、信利と信利の嫡子である信音が幕府評定所に呼び出されました。
老中である大久保加賀守忠朝が列席。
10ヵ条に渡り、厳しく問いただされました。
この評定で信利は釈明できず、信利は領地を没収、改易、配流されることが決まりました。
信利は出羽国の山形藩主である奥平小次郎昌章、信音は播磨国の赤穂藩主である浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)に身を預けられることになりました。
翌日23日には塚本舎人、麻田権兵衛、宮下七太夫が切腹しました。
こうして、信利の藩主生命24年の幕が閉じました。
同時に、1580(天正8)年5月に曾祖父昌幸が勝ち取った沼田城は、真田氏在城101年目にして真田氏の手から離れることになりました。
松井市兵衛は斬首、杉木茂左衛門は磔(はりつけ)の刑になりました。
沼田真田藩が取り潰しになった直後の1682(天和元)年1月、幕府によって沼田城が破壊されました。この時、関東に唯一存在していた5層の天守などが失われました。
沼田藩は幕府の直轄地(天領)になり、代官が派遣されるようになりました。
1684(天和3)3月、幕府による再検地が行われ、沼田領は64500石になり、領民への税金が低くなりました。
1685(貞享2)年6月22日、幕府による四方領知替えにより、奥平氏に山形から宇都宮への移封が命令され、それに伴い信利も宇都宮へ移りました。
1688(貞享5)年1月16日、宇都宮にて真田信利が亡くなりました。(信利享年54才)江戸神田の吉祥寺(現在は文京区)に葬られましたが、この墓石は現存していないと言われています。墓は龍華院弥勒寺に現存しています。 |