わずか2才で藩主になった幸道には祖父信之が後見役になっていましたが10月17日に亡くなったため、代わって姉の嫁ぎ先である磐城平藩主の内藤忠興(幸道にとって義兄の父親)が後見役になり、幕府から目付役が派遣されました。
1669(寛文9)年、幸道(この頃はまだ幸道ではない)は13才を迎えてから信房を名乗り始めました。
1674(延宝2)年、生まれてからこれまで過ごしていた江戸屋敷を出て初めて松代に入りました。(幸道18才)
1711(正徳元)年12月23日に名前を幸道に改名しました。
同年、地名も松城から松代に改名しました。
幸道が信之から相続した松代藩の蓄えは24万両~36万両(複数の説あり)もありましたが、真田氏の実力を恐れた幕府は数多くの仕事を松代藩に命じ、多額の出費を余儀なくされました。
幸道が藩主だった69年間に幕府から課せられた主な仕事一覧
「1657(万治3)年、江戸城の普請手伝い」
「1682(天和2)年、越後高田の検地」
「1683(天和3)年、日光山普請手伝い」
「1690(元禄3)年、高遠の検地」
「1697(元禄10)年、信濃国絵図の調製」
「1703(元禄16)年、善光寺再建普請」
「1708(宝永5)年1月、地震災害復旧での東海道普請手伝い」
「1711(正徳元)年、朝鮮使節饗応」
「1725(享保10)年、松本城受け取り」
1707(宝永4)年、善光寺本堂が落成し8月13日に盛大な落慶法要が行われましたが、その約1ヵ月半後の10月4日に東海道を直撃した大きな地震が起こり、松代藩周辺でも被害がありました。
1717(享保2)年2月に湯本火事が起き、さらに4月には関口火事が起きて松代城と城下町の大半を焼失しました。
松代城の再建について幕府から1万両を借りなければならない状況にまで、松代藩の財政は悪化していきました。
1719(享保4)年と1721(享保6)年に千曲川で大洪水が発生して、松代藩は甚大な被害を負いました。
幕府から命じられた仕事や災害発生後の復旧工事で、幸道が藩主だった69年間で信之から受け継いだ遺産のほとんどを使い果たし、松代藩の財政は苦しい状態になりました。
長男である源治郎が幼くして亡くなり、実子で家督を継げる者がいなかったため、幸道は兄信就の七男を養子にして、松代藩の家督を継がせることにしました。
幸道は文武に長けており、柔術では渋川流、剣術では神道流の達人、そして学者や文化人を松代藩に招いたり、便所に書物を常備した程の読書家でした。ちなみに、信弘が幸道が残した蔵書を売ったところ、400両にもなったようです。
1727(享保12)5月17日、江戸藩邸にて幸道が亡くなりました。(幸道享年71才)
幸道は約70年という長い間、松代藩主の地位にいました。
江戸赤坂の盛徳寺(現在は神奈川県伊勢原市)で葬儀が行われました。
現在、幸道の霊屋は長野県長野市松代の長国寺の開山堂として残っています。
幸道が亡くなった後は、養子である信弘が4代藩主になっています。 |