1740(元文5)年、松代5代藩主である真田信安とその側室である毛登の間に生まれました。
1742(寛保2)年、千曲川やその支流が洪水を起こし、流域に甚大な被害をだしました。「戌の満水」
1752(宝暦2)年、信安が亡くなったことにより、13才の豊松は幸豊に改名し、家督を継ぎ、6代藩主の座に着きました。
1755(宝暦5)年、従五位と伊豆守を任ぜられました。
大坂の役から約150年経ったこの頃になると真田氏に対する幕府の警戒心が緩み、それまで譜代大名しか務められなかった江戸城大手御門番を何度か命じられました。
1757(宝暦7)年、幸弘は財政難に苦しんでいた松代藩を立て直すため、恩田杢民親に勝手係を命じました。この恩田氏による改革を「松代藩 宝暦の改革」と言います。月割り金納制度を打ち出すなどの改革が行われました。
1757(宝暦7)年と1765(明和2)年には大洪水が起こりました。
幸弘は学問に造詣が深く、1758(宝暦8)年に初めて藩校「文学館」を設立し、江戸から儒学者である菊池南陽を招いて講義を開くなどしました。
俳句を大島蓼太から学び、幸弘自身も菊貫や白日庵と称し、俳人として「菊貫集」(真田宝物館蔵)という句集を残しています。そして、学問を平林淳信から、和歌を賀茂真淵から学びました。
1760(宝暦10)年、松平越中守定賢の娘と結婚しました。
1762(宝暦12)年1月6日、恩田杢民親が亡くなりました。(民親享年46才)
民親による改革は十分な成果を上げることは出来ませんでしたが、恩田の後を望月治部左右衛門、成沢勘左右衛門、禰津要左衛門らが改革の基本路線を引き継いでいきました。
1767(明和4)年に藩主の居館として花の丸御殿を建造しました。
1781年(天明元)、幸豊を幸弘に改名しました。(幸弘42才)
幸弘の息子達は若くして亡くなってしまいました。そのため、1785(天明5)年、彦根藩の井伊直幸から四男である順介を婿養子として迎え、長女の三千と結婚させました。
1788(天明8)年、幸弘は弾正大弼を任ぜられました。
1790(寛政2)年、幸弘は右京大夫(うきょうのだいぶ)に任ぜられました。
1798(寛政10)年8月21日、幸弘は家督を婿養子である幸専にゆずり、隠居しました。(幸弘59才)
1815(文化12)年8月3日、幸弘が亡くなりました。(真田幸弘 享年76才) |