1770(明和7)年、幸専は彦根藩主で幕府の大老も務めた井伊直幸の四男として生まれました。母は直幸の側室(坂本氏の娘)で、名は井伊順介でした。
松代真田6代藩主である真田幸弘は家督を継がせる予定だった息子達に先立たれてしまったため、娘の三千に婿養子を迎えることにしました。
1785(天明5)年、井伊順介(幸専)は16才で真田幸弘の養子になり真田氏に入りました。
1789(寛政元)年に三千と結婚し、その後、幸専に改名しました。
真田氏は関ヶ原の戦いで主流の昌幸が西軍になったことから外様大名でしたが、幕府で大きな影響力を持っている譜代大名から養子を迎えることにより、実質的には譜代大名となっていきました。
1798(寛政10)年、養父で6代藩主である真田幸弘が隠居したため、幸専が7代藩主になりました。
1802(享和2)年、幕府から隅田川御船蔵の建造と本所筋の河川改修を命じられました。松代藩の財政は大変苦しい状態で16000両にものぼる工事費用の調達に苦難し、実家の井伊氏から5000両を借りました。そのため、幸専はこの年の5月、藩内に倹約令を出しています。
幸専には実子ができなかったので、自分の正室である三千姫(真珠院)の妹、峯姫(心蓮院)の娘(幸専にとって姪)である雅姫を養女に迎え、1815(文化12)年には松平氏から婿養子(後の真田幸貫)を迎え、翌年の1816(文化13)年に雅姫と結婚させました。
婿養子の幸貫は8代将軍吉宗の曾孫だったので、徳川氏の男系が真田氏に入ったということになります。
1823(文政6)年、幸専は婿養子である幸貫に家督をゆずり、隠居しました。(幸専54才)
1828(文政11)年7月17日、幸専が亡くなりました。(幸専享年59才) |