老中辞職後は幕府から帝鑑間の伺候席を与えられ、形式上は真田氏は譜代と同等になりました。
幸貫は松代藩内に倹約令を出すとともに、自らも木綿の衣服を着たりするなど質素倹約に務めました。
幸貫による改革は財政にとどまらず、法制の整備、職制を改正して人材を適材適所に配置したり、村名主の公選を行ったり、産業の振興、軍備の改革、さらには学問褒賞制度を設けたり、藩の歴史を編纂したり、文武学校の創設を計画するなど、文学や武芸の振興にも尽力しました。
軍備は大砲200門、小銃300丁を備えてました。
領民の声に耳を傾けるため城下に目安箱を設置したり、穀物を倉庫で計画的に蓄えて凶作に備えたり、家臣や領民の様子について隠密目付を使って探らせるなど、実父松平定信や曾祖父徳川吉宗の手法も用いたりしながら、大規模な藩政改革を行いました。
文武の知識豊かな藩主のもとで、佐久間象山・村上英俊・片井京介・三村晴山・山寺常山・長谷川昭道など多くの有能な人材が輩出されました。
幸貫が藩主になった頃から、徐々に藩内は恩田党と真田党という2つの派閥の対立が目立つようになっていました。
恩田党は河原舎人・佐久間象山・山寺常山など改革的な考え方の人々が多く、真田党は真田志摩・長谷川深美・鎌原伊野右衛門など保守的な人々の集まっていました。
1847(弘化4)年に起こった善光寺地震により、北信濃は壊滅的な状況になりました。これは苦しい松代藩の財政に追い打ちを掛ける形になりました。この頃、権力を握っていた恩田党により多額の復興歳費が支出されため、松代藩の財政は破綻同然の状況になり、最悪な状況下で恩田党と真田党の争いが激しくなりました。
1851(嘉永4)年、幸貫は恩田党を更迭し、真田党を重職に命じました。
松代藩の家督を継ぐはずだった長男幸良が早世したため、家督継ぐ後継者としての養子を何度か迎えました。しかし、その子らも早世してしまい、幸貫は長男幸良の長男、つまり孫である幸教を自分の養子にして後継者に指名しました。
幸教は、公には松平定信の末子ということになっていました。
隠居した後、1852(嘉永5)年6月8日、幸貫が亡くなりました。(真田幸貫 享年62才)
幸貫は、信之が祀られている白鳥神社に合祀されることを生前望んでいましたが、実現しませんでした。
松代の長国寺に葬られました。
東京の青山墓地にも墓があります。
真田幸貫は幕末における藩政改革の代表として、その名を今に伝えています。 |