武田信玄の家臣として吾妻郡を制圧しつつあった昌幸は沼田城を攻略する為に、利根川を挟んで沼田城の反対側にある名胡桃城の城主である重則を味方に引き入れました。
昌幸が沼田城を攻略した後、重則は昌幸から名胡桃城の城主を任され、それは武田氏滅亡後に真田氏が徳川氏の家臣になった後も城主を任されました。
その後、北条氏政が徳川家康と和睦するにあたっての条件として沼田領の譲渡を要求したため、徳川氏は真田氏に沼田領を北条氏に明け渡すように命令しましたが、真田昌幸は命令を拒否して徳川氏と対立するようになりました。
1589(天正17)年7月10日には天下をほぼ手中にしていた秀吉の決断によって沼田城は北条氏へ明け渡すことになり、昌幸はこれに従いました。
1589(天正17)年11月3日、名胡桃城を北条氏が乗っ取りました。
この時、名胡桃城が乗っ取られたことに対して責任を取って切腹しました。 |