明石全登(てるずみ)の生没年・父母など、自出は不詳です。
備前国・備中国・美作(みまさか)国を領地にしていた宇喜多秀家の重臣でした。
全登の正室は秀家の姉であり、33000石を与えられていました。
1600(慶長5)年、関ヶ原合戦では宇喜多秀家が西軍の副大将として主力部隊を編成し、これに全登も従いました。
西軍の敗北により、宇喜多氏は領地を没収されました。
秀家の身柄は一時的に島津氏預りになりましたが、その後、八丈島に幽閉されました。
全登は親戚である黒田氏に匿われたとも、播磨国の辺りで潜伏していたとも言われています。
1614(慶長19)年、豊臣氏と徳川氏の軍事衝突が近づきました。
主な大名は徳川方になっていくような状況下で、全登に豊臣方から参戦の誘いが来ました。
全登は関ヶ原合戦での雪辱を果たすことと、キリシタン大名として徳川幕府によるキリシタン弾圧政策に抵抗する意味もあり、豊臣方になりました。
全登の参戦を知った全国のキリシタンのうち、約8000人が大坂城に結集したと言われています。
1615(慶長20)年、大坂夏の陣、真田信繁(幸村)の作戦により、全登は約300人の兵を率いて家康を背後から襲うことになりましたが、作戦開始の合図だった秀頼の出陣が実現せず、徳川方の行動も予想を超えて迅速だったため作戦は実行されず、全登隊は場当たりな戦闘を余儀なくされ、そのまま大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡しました。
前後、全登の消息は不明で、大坂の陣で討ち死にしたとも、逃亡したとも言われていますが、その後全登が生きていたという形跡は残っていません。
キリシタンによる一揆である島原の乱(1637~1638年)には多くの豊臣残党が参戦していたため、幕府は豊臣氏の生き残りを一斉捜索を命令しました。
1640(寛永17)年3月、仙台藩が明石全登の子である明石内記の身柄を確保しましたが、3月20日に病死したため、内記の遺体が塩漬けされて幕府に届けられました。
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