伊木遠勝は、1567(永禄10)年に生まれました。
遠勝は、秀吉の家臣として賤ヶ岳の合戦で戦い、戦功を認められて黄母衣衆(きほろしゅう)に抜擢されました。
黄母衣衆には野々村雅春(ののむらまさはる)、青木一重(あおきかずしげ)、速水守久(はやみもりひさ)らも任ぜられたが、彼らは御馬廻七頭(おうままわりしちがしら、七手組)も務めたのに対し、遠勝は黄母衣衆の身分に留まった。
1600(慶長5)年の関ヶ原合戦後は牢人になりましたが、1614(慶長19)年秋頃、豊臣方と徳川方の軍事衝突が近づくと大坂城に入城し豊臣方に加勢しました。
秀頼の代になっても七手組は野々村らが務めることになり、伊木は軍監として参戦することを許されました。
遠勝は真田信繁(幸村)隊に参加することになりましたが、これは豊臣幹部側にとって信繁(幸村)を監視する目的だったと言われています。
遠勝は信繁(幸村)とともに真田丸に籠もりました。
1614(慶長19)年12月4日、徳川方である前田利常・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎の各隊が真田丸に攻撃を開始しましたが、これを曲輪内からの一斉射撃で一網打尽に迎撃し、徳川方は混乱に陥りました。
遠勝は幸昌(大助)とともに500人の兵を率いて、逃げまどう徳川方を撹乱しました。
夏の陣で道明寺の合戦に参加して以降の遠勝の動向については不詳ですが、そのまま信繁(幸村)とともに天王寺口の合戦で討ち死にしたと言われています。
遠勝とともに大坂の役に参戦していた子の庄次郎は大坂城から脱出して、後に伊木三郎右衛門に改名して真田信之に仕えたと伝えられています。 |