石田三成
プロフィール
読み仮名
みほん
生没
1560(永禄3)年5月~1600(慶長5)年10月1日 享年41才
出生
 
別名
三也、治部少輔
移籍
 
宇田頼忠の娘
子供
 
 
備考
 
経歴

石田三成は1574(天正2)年頃、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣になりました。(三成15才頃)

 

宇田頼忠の娘と結婚し、正室にしました。
正室の兄弟である宇田頼次に石田刑部少輔を名乗られました。
宇田頼次は真田昌幸の5女を妻にしているので、石田氏と真田氏は宇田氏を通じて親戚関係が成立していたのです。
これが秀吉亡き後の豊臣氏と徳川氏の対立の中で、重要な意味を持ってくるのです。

1590(天正18)年頃、三成は近江国佐和山(19万石)の城主になりました。

1600(慶長5)年、豊臣五奉行として徳川氏の台頭に反発していた三成は、徳川氏の勢力に対して武力で抵抗することにしました。
この動きを察知した徳川氏は挑発に乗り、上洛命令を破った上杉氏討伐を名目にし、京伏見城を出発し、様子をうかがうように徐々に東方へ進軍しました。

三成は7月17日付けの手紙で昌幸に、徳川氏と武力で対決して豊臣氏の復権を目指すことを伝えました。
真田氏は昌幸と次男信繁(幸村)が豊臣方である西軍に入り、長男信幸は徳川方である東軍に入りました。

三成は上田城で徳川方からの攻撃に備えている昌幸宛に何度も手紙を出しています。
昌幸が人質として差し出した山手殿が無事に大坂城へ着いたことや、宇田氏が西軍に入り三成の居城である佐和山城に籠もったこと、そして信繁(幸村)の正室の父である大谷吉継が同じく西軍に入ったことなどが伝えられました。
三成は戦略的に重要な役割を親戚に頼っていたと思われます。

9月15日、ついに石田三成を中心とする西軍と徳川家康を中心とする東軍が衝突する関ヶ原の戦いが起こりました。
この1日で勝負が付き、三成が率いる西軍は裏切りが続出し、家康が率いる東軍に敗れました。
敗れた三成は逃亡しましたが、田中吉政により伊吹山で身柄を確保されました。
三成と吉政は出身地が近いこともあり旧知の仲でしたが、吉政は関ヶ原合戦開戦以前から徳川方に付いていました。

1600(慶長5)年10月1日、三成は徳川氏によって六条河原にて処刑されました。(石田三成 享年41才)

 

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