小幡勘兵衛の名で知られ、「甲陽軍鑑」著者または、その成立に関わった兵学者として有名です。
景憲の祖父は武田二十四将に数えられた小幡虎盛(おばた とらもり)です。
1572(元亀3)年、景憲は武田氏家臣である小幡豊後守昌盛(おばた ぶんごのかみ まさもり)の次男または三男として生まれました。
武田氏滅亡後、景憲は11歳頃、徳川秀忠の小姓に一時なりましたが出奔し、諸国を回り武芸や兵学を学ぶ牢人(浪人)生活をしました。
後に井伊直政の家臣になり、井伊隊の一員として関ヶ原合戦に参戦しました。
大坂冬の陣では前田利常隊に属する富田越前守隊に入り参戦し、真田丸攻撃に加わりました。
大坂夏の陣では参謀として豊臣方に入りましたが、徳川方である板倉勝重に豊臣方の情報を流していたと言われています。
信繁(幸村)を騙そうとしたところ、それを見破られて監禁されたとも言われています。
大坂の役後、景憲は徳川氏から1500石と御使番の役目が与えられました。
景憲は、岡本宣就(おかもと のぶなり)や赤沢左衛門(あかざわ さえもん)から兵学を学び、甲州流兵学を確立しました。
武田流または信玄流とも呼ばれ、弟子は2000人を越えました。
1663(寛文3)年2月25日、小幡景憲が亡くなりました。(小幡景憲 享年92才) |