1560(永禄3年)年、大久保忠教は大久保忠一の八男として、三河国上和田(愛知県岡崎市)で生まれました。
大久保氏が使えていた徳川家康は織田氏と同盟を結び、武田氏・北条氏らと対立していました。
1575(天正3)年、長篠合戦で織田徳川方が武田氏に勝ちました。
1576(天正4)年、織田氏による遠江国(とおとうみのくに)平定の戦いが起こり、兄忠世と参戦した犬居城(別名:乾城)合戦が忠教の初陣でした。(17才)
その後も、兄忠世・忠佐らに従い各地を転戦し、織田氏の勢力拡大に貢献しました。
1581(天正9)年、徳川方は横須賀城を拠点に高天神城を陥落させました。
この戦いで忠教は敵将である岡部元信を討つなど、戦功を上げたと言われています。
1582(天正10)年、本能寺の変で織田信長が亡くなり、徳川方は草刈り場と化した信濃国へ攻め入りました。
1583(天正11)年、忠教は兄忠世らと共に信濃国佐久郡へ侵攻し、小諸城、岩尾城を攻略した後、大久保忠世は小諸城信州惣奉行を務め、徳川氏の勢力は真田氏の本拠地まで迫りました。
その後、真田氏が徳川氏の傘下に入りましたが、1585(天正13)年、北条氏との取引上で不可欠な「北条氏への沼田領引き渡し」を拒んだ真田昌幸を討伐するため、徳川家康は鳥井元忠を総大将にして、平岩親吉らを信濃国上田へ出陣させました。
これに、忠教も兄忠世とともに参戦しました。
第一次上田合戦が起こりましたが、戦況は終始真田氏のペースにより展開し、徳川方は1300人の戦死者が出て大敗しました。
忠教は「ことごとく腰が抜けはて」「下戸に酒を強いたる風情」などと徳川方の状況を書き記しています。
1590(天正18)年、北条討伐が行われ、その後、主である家康が江戸に移封されました。
この時、兄忠世に小田原45000が与えられ、忠教にも3000石が与えられました。
1594(文禄3)年、大久保忠世が亡くなり、大久保本家の家督は忠世三男である忠隣が継ぎ、小田原にこれまでの武蔵国埴生2万石を加え、65000石になりました。
忠教にとって忠隣は甥にあたります。
1600(慶長5)年、関ヶ原合戦の開戦直前、西軍に入った真田昌幸・信繁(幸村)父子を討伐するために、東軍本隊である徳川秀忠は関ヶ原へ向かう途中において、真田氏討伐を行うことになりました。
この時、秀忠方には甥忠隣が随行しましたが、本多正信が秀忠に真田氏との交戦を止めるように進言したのに対して、忠隣は真田氏討伐を主張しました。
9月初旬、第二次上田合戦が起きましたが、これに秀忠方が大敗しました。
正信は軍令違反を犯した徳川方の諸将を罰し、忠隣の旗奉行である杉文勝(ふぎふみかつ)に切腹を命じました。
これにより、大久保氏は親子二代に渡り、上田合戦で苦汁を舐めさせられたことになりますた。
甥である忠隣が上田で苦戦を強いられている一方で、忠教は関ヶ原の家康本陣で槍奉行を務め活躍しました。
1613(慶長18)年4月、大久保長安事件が起こりました。
甥忠隣がこの事件で連座により失脚し改易になりました。
これに伴い忠教も改易されましたが、家康により駿府へ召し出され、家康直臣の旗本として三河国額田に1000石を与えられました。
1614(慶長19)年、大坂冬の陣で槍奉行を務め、さらに1615(慶長20)年、大坂夏の陣でも槍奉行を務めました。
夏の陣の天王寺・岡山の戦いで、真田信繁(幸村)により直接攻撃された家康本陣が3里に渡って逃げ続けました。
これを忠教は「三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申しより外、後先御陣にも御旗の崩れ申す事無し」と記しています。
1639(寛永16)年2月29日、大久保忠教が亡くなりました。(大久保忠教 享年80才)
忠教は忠世・忠佐ら徳川氏の重臣として活躍する兄を持ち、後に自らも「天下のご意見番」と評されました。 |