大谷吉継
プロフィール
読み仮名
おおたに よしつぐ
生没
1559(永禄2)年~1600(慶長5)年 享年42才
出生
父は豊後国の大友宗麟(おおとも そうりん)の家臣である大谷盛治、または近江国の六角氏の家臣である大谷吉房とも言われ、はっきりしていません。
別名
吉隆、紀之介
官位
刑部少輔(ぎょうぶのしょう)
長男:大谷大学助義治(義胤)、次男:木下山城守頼継
養女:利世(竹林院)
子供
 
 
備考
吉継の妹と浅井内蔵之助の子供である利世を養子に迎えました。
吉継の妹は秀吉の側室になり、その後は、本願寺坊官である下間式部卿(しもつましきぶのきょう)に嫁ぎました。
経歴

1559(永禄2)年、大谷吉継が生まれました。
吉継は、豊後国の大友宗麟(おおとも そうりん)の家臣である大谷盛治の子、または近江付近の出身とも言われ、自出については諸説があります。
母は「朝日な(あさひな)」で、諸大名からは「東殿」と呼ばれた人物であるとされていますが、豊臣秀吉の生母である天瑞院の従妹説、豊臣秀吉の正室である高台院の縁者説もあります。

吉継は、豊臣秀吉のもとで兵糧の輸送や検地などに才能を発揮し、重用されました。
1589(天正17)年、越前国敦賀5万石の城主になりました。

天正年間(1573~1593)のある時期、病気がちだった吉継は湯治を行うため、真田氏の領地だった草津温泉に滞在しました。
この時に大谷氏と真田氏の仲が深まった結果、信繁(幸村)と利世の縁談が成立した可能性があります。

1594(文禄3)年、真田信繁(幸村)が従五位下左衛門佐に任ぜられ豊臣の姓を賜ったころ、吉継は娘である利世を真田信繁(幸村)に正室として嫁がせました。
利世は吉継の実子というのが通説ですが、親戚の子を養子として育てたという説もあります。
これにより、吉継は信繁(幸村)の義父になりました。

1600(慶長5)年、徳川家康による上杉征伐に従っていましたが、佐和山城で石田三成から徳川を討つ為に挙兵することを打ち明けられました。
吉継は挙兵しないように三成を説得しましたが、三成の決意は固く、吉継は三成に協力する道を選びました。

三成が昌幸宛に送った手紙には「北国口 一千二百人 大谷刑部少輔」と書かれています。
これは、大谷氏が協力しているので、昌幸にも味方になるように促しているのです。

関ヶ原で吉継は藤川台に陣を張りました。
関ヶ原の戦いが起こりました。
この直前に「吉継」を「吉隆」に改名したと言われています。

9月15日午前中、東軍の京極・藤堂両隊と激戦を繰り広げていましたが、松尾山に陣していた小早川秀秋隊、続いて脇坂安治らの各隊が次々に寝返っていきました。
窮地に追いつめられた吉継は自害しました。(大谷吉継(吉隆)享年42才)
関ヶ原には藤堂氏が建てた吉継の墓があります。

長男大谷義治は逃げて生き残りましたが、まもなく病死しました。

次男木下頼継は大坂の役で豊臣方になり、大坂城に籠城しました。
1615(慶長20)年5月7日、真田信繁(幸村)など豊臣方の主力部隊は徳川軍により撃破され、頼次は討ち死にしました。

 

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