宇田頼次
プロフィール
読み仮名
うだ よりつぐ
生没
生年不詳~1600(慶長5)年9月17日 享年不詳
出生
宇田河内守頼忠(大和国と河内国のどこかに領地を構えた)の子。
別名
石田刑部少輔、(宇田と表記されることもある)
移籍
 
 
子供
 
 
備考
真田昌幸五女にとって最初の嫁ぎ先
経歴

父頼忠は若い頃、尾藤(びとう)下野守を名乗り、美濃国の出身だと推定されます。
豊臣秀吉の弟である豊臣秀長(大和郡山城主)に仕えていました。
秀長死後は秀吉に仕え、13000石を与えられていました。
与えられていた領地は大和国・河内国のどこかと言う事以外は不明で、居城がどこであったのかも分かっていません。

頼忠には長男頼忠の他に娘がいましたが、娘の内の1人が石田三成の後室になりました。

昌幸の正室が宇田頼忠の娘であるという説がありますが、最近は宇田氏と真田氏の当事者の年齢や当時の身分の差を鑑みると、これは誤りである可能性が高いとされています。

頼忠は、宇田頼忠の子供として生まれましたが、生年と母は不詳です。

頼忠には女兄弟がいましたが、その内の1人が石田三成の後妻になりました。
これにより、頼次は石田三成の猶子(準養子)格になり、石田刑部少輔を名乗りました。

1600(慶長5)年、義兄弟である三成が挙兵し、徳川家康が率いる東軍と戦った関ヶ原合戦の時には、三成が指揮する西軍に入り、父頼忠と共に三成の居城である佐和山城を守りました。
三成が、8月6日付けで送った手紙には、手紙を書いたその日に宇田父子が佐和山城に入ったことが書かれています。
同年9月15日、西軍は東軍に敗れました。
17日、佐和山城に東軍の大軍が押し寄せました。
その主力部隊は、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋、三成と旧知の仲ではあったが開戦前から徳川方だった田中吉政らでした。
佐和山城は落城し、宇田父子は三成の家族と共に城内で討ち死にしました。

頼次の正室だった昌幸五女(名前不詳)の関ヶ原合戦での行動は全く分かっていませんが、敗者としての連座は免除され、命を長らえました。
後に、幕府旗本である滝川一積と再婚しました。

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