1556(弘治2)年、片桐且元は近江国(滋賀県)で生まれました。
1579(天正7)年頃、長浜城主である羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣になりました。
秀吉のもとで実力を発揮し、側近になっていきました。
1583(天正11)年5月、秀吉と柴田勝家による賤ヶ岳合戦が起こり、福島正則や加藤清正らと共に活躍しました。
この時、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられ、秀吉から戦功を賞されて3000石を与えられています。
その後、且元は戦闘の最前線で活躍する機会はほとんど無く、後方支援の活動が中心になりました。
福島氏や加藤氏が10万石を超える大名に取り立てられたのに対し、且元は12000石に過ぎませんでしたが、後に豊臣秀頼の守り役に命じられていることから、豊臣氏にとって大名としてよりも、身近に置いておきたい家臣の1人だったと言えるでしょう。
且元は秀吉の晩年に秀頼の傅役(もりやく)
秀吉の死後、影響力が拡大し続ける徳川家康に対して、豊臣氏は大きな危機感を思っていました。
五奉行の筆頭的存在として知られる石田三成は、家康への敵対心を露わにしていたのに対して、且元は冷静に状況を判断して秀頼の傅役として行動するように務めたようです。
関ヶ原合戦後、五大老筆頭である徳川家康から大和竜田二万八千石を与えられました。
徳川氏との交渉窓口を務めていました。
家康の要望に応えて且元は豊臣ゆかりの寺社の建立や再建を秀頼に勧めましたが、方広寺の鐘銘事件が起こると、豊臣氏と徳川氏の間で板挟み状態に陥りました。
且元が取った態度を疑問に思った豊臣方は、且元が家康に通じていると判断し、1614(慶長19)年10月1日、且元は大坂城から退去しました。
これは真田信繁(幸村)が九度山を脱出して入城してくる10月13日の約12日前のことでした。
大阪の役が始まると且元は徳川方として行動し、
冬の陣では且元により淀殿の居間が徳川方に伝えられ砲撃された結果、和睦に繋がりました。
夏の陣で豊臣方の敗北が濃厚になった時期には、且元が秀頼と淀殿の居場所は糒蔵である可能性が高いことを伝えました。
大阪の役後、且元は40000石に加増されました。
且元は豊臣方を裏切った不忠者として非難されました。
秀頼が切腹し豊臣氏が滅亡して約20日後の1615(元和元)年5月28、片桐且元が亡くなりました。(片桐且元 享年60才)
切腹とも、病死とも言われています。 |