1579(天正7)年7月7日、徳川秀忠は徳川家康の三男として生まれました。
母は父家康の側室である西郷局です。
1595(文禄4)年、信長の姪で豊臣秀吉の養女のお江与と結婚しました。
1600(慶長5)年、関ヶ原合戦の直前に敵対する西軍に入った真田氏を討伐するために、上田城を攻めましたが、上田城を拠点にして反撃をする真田昌幸・信繁(幸村)父子の策略や周辺の属城に籠もる真田氏家臣、さらには上杉氏からの援軍により、地の利を生かした真田方は秀忠方を圧倒し、38000人という東軍本隊である秀忠は攻略をあきらめ、関ヶ原を目指します。
しかし、関ヶ原合戦は秀忠が決戦の地である関ヶ原に到着する前に決着が付き、父家康から面かを許されないほど怒られました。
家康は後継者が育っていることを宣伝するためにも、秀忠に自らの軍勢よりも多くの大軍を与えたのに関わらず、このような失態をした秀忠を怒ったというのが通説です。
秀忠はこの戦いが初陣だったと言われ、真田氏に初陣を汚されたという憎しみが生涯残ったとも言われています。
1605(慶長10)年4月16日、秀忠は父家康から将軍職を世襲しました。
家康存命中にも関わらず早い時期に秀忠が将軍を譲り受けたのには、まだ豊臣氏が徳川氏にとって脅威であり、江戸幕府は徳川氏による将軍の世襲により成立するものだということを、諸大名に向けて知らしめす狙いがありました。
1614(慶長19)年、大阪冬の陣での秀忠の気合いの入り方は人並みならぬものがあったと言われています。
父家康は駿府を出発してから、鷹狩りを楽しみながら西へ進んだのに対して、秀忠は脱落者が出る程の猛スピードで西へ進み、大坂に着いた直後には直ちに総攻撃をするように主張しました。
真田信繁(幸村)が籠もる真田丸の正面後方に陣をおいた秀忠は、前田隊などが真田氏の策略で大打撃を受けているのを目の当たりにしました。
父家康は豊臣氏と講話を結ぶことを進めましたが、これに秀忠は反対しました。
1615(慶長20)年、夏の陣で父家康の本陣が約12キロも追いかけ回される事態が発生しましたが、戦線から引き返してきた援軍により真田信繁(幸村)を討ち取りました。
1623(元和9年)年、秀忠は将軍職を次男家光に譲り、隠居して江戸城西の丸に移りました。
父家康にならい、秀忠も大御所として二元政治を行いました。
1632(寛永9)年1月24日、秀忠が亡くなりました。(徳川秀忠 54才) |