1775年(安永4年)、白河藩主を務める松平(久松)氏の養子になりました。
1783年(天明3年)、藩主となってからは藩財政の再建につとめました。
1787年(天明7年)、徳川幕府の老中に就任して田沼意次失脚後の幕府改革を行いました。これを「寛政の改革」と呼びます。
1825(文政8)年5月、幸貫が初めて参勤交代で江戸を訪れる際には、幸貫と事前に手紙でやり取りをし、自らの使者に江戸に着いた幸貫を出迎えさせるなどしました。
定信は幸貫が江戸藩邸にいる間はほぼ毎日手紙のやり取りをしていました。
定信は、鎌原・恩田・池田要人佐久間一学など、後に幸貫のブレーン的な存在になる人々と手紙のやり取りをしていました。
佐久間一学は佐久間象山の父親であり、定信からの間接的な影響で佐久間象山が頭角を現してきた可能性も否定できません。
幸貫の藩政改革が定信の改革と似ていたのは、定信からのアドバイスがあり、定信が亡くなった後も、幸貫は定信の改革手法を見本にしてしたからだと言われています。 |