<文章1>と<文章2>をブレンドすること!
<文章1>
秀次は秀吉の姉で後に日秀(とも)の子として生まれました。
三好康長の養子になり三好孫七郎信吉を名乗りました。
実子がいない羽柴秀吉(豊臣秀吉)の後継者として秀吉の養子になりました。
秀吉の嫡子である鶴松が病死したため、秀吉から後継者として指名され、1591(天正19)年12月、豊臣2代関白になりました。
秀吉に実子が生まれたため、秀次は難しい立場になっていきました。
秀次は比叡山での鹿狩りや嗜好殺人など乱暴行為が目立ったため、「殺生関白」と呼ばれました。
1595(文禄5)年、謀反の嫌疑をかけられて、秀吉から高野山に幽閉された後、切腹を命じられました。
1595(文禄5)年8月2日、4男1女の遺児に加え正室・側室ら秀次一家39名が三条河原にて処刑されました。
秀次が切腹したことにより、父吉房も連座により讃岐国に流されました。
母日秀は出家し、秀次を供養するため京に瑞龍寺を建立し菩提を弔いました。
秀次の娘である隆清院と真田信繁(幸村)がいつ頃結婚したのかは不詳です。
秀吉や秀次の存命中であれば正室として扱われるべきですが、そうではなく側室になっている状況をみると、三条河原での処刑を免れて、信繁(幸村)が九度山に幽閉された1600(慶長5)年12月以降に結婚したようです。
秀次の存命中にできた孫ではありませんが、信繁(幸村)と隆清院の子供であるお田の方と幸信は、秀次の孫にあたります。
<文章2>
秀次は、尾張国大鷹村で百姓を営んでいた木下弥助と”とも”の長男です。
”とも”は豊臣秀吉の姉です。
秀次は秀吉の養子になって豊臣氏による天下統一に若くして尽力し、18才で近江八幡42万石になりました。
20才には、関白従二位左大臣に就任しました。
殺生関白と呼ばれるほど、いつも乱暴を振るっていて周囲に迷惑を掛けていました。
1595(文禄4)年、秀吉の逆鱗に触れ謀反の罪で高野山に幽閉され、28才で自害しました。
秀吉の後継者である秀頼に対して、秀次の妻子から謀反が起こらない様に秀次の血筋を絶つために、妻子39人を三条河原で処刑しました。
秀次の血統は絶たれたはずでしたが、隆清院とその姉は生き残りました。
隆清院は真田信繁(幸村)の側室になり、信繁の五女お田の方を産みました。
隆清院の姉は公家の梅小路氏に嫁ぎました。 |