1595(文禄4)年6月10日、松平忠直は結城秀康(のちの松平秀康)の長男として生まれました。
1607(慶長12)年、父秀康が亡くなり、越前国北庄67万石の家督を相続しました。(忠直13才)
1611年(慶長16)年)、秀康は叔父である徳川秀忠(2代将軍)の娘である勝姫を正室に迎えました。
1614(慶長14)年、大坂冬の陣が起こりました。
12月4日早朝、徳川方である前田利常隊は、豊臣方である真田信繁(幸村)が籠もる真田丸に突入を始めました。
これは真田隊の挑発に乗った前田隊の一部が突発的に始めた戦闘だったと言われています。
これを見た井伊直孝隊・藤堂高虎隊とともに忠直隊も遅れを取る訳にはいかないと、続いて真田丸を攻め始めました。
これを知った家康は攻撃中止を命令しましたが、最前線は統制が効かない状態になっており、徳川方の一部が真田丸を攻撃しました。
真田丸攻撃の切っ掛けになったのは、豊臣方の石川康勝が大坂城内で火薬事故を起こし、それを徳川方が内応者が決起したものと勘違いして、攻め込んだことだと言われています。
忠直隊は大阪城内まで攻め込みましたが返り討ちに遭い、越前隊だけで約480騎の戦死者を出し、これはこの日の徳川方で最大の損害でした。
結局、徳川方は午後3時頃になって撤退を始めましたが、真田丸の真田信繁(幸村)を中心に籠城戦を行った豊臣方に敗れ、多くの戦死者が出ました。
1615(慶長20)年、大坂夏の陣が起こりました。
5月7日、忠直は茶臼山から攻めてきた真田信繁(幸村)と交戦しましたが突破され、家康本陣信繁(幸村)により約12キロも逃げ続けることになりましたが、忠直隊など体勢が立て直され、救援部隊が家康本陣に集まり始めたたね、信繁(幸村)は追撃を中止しました。
忠直隊の西尾宗次(にしお むねつぐ)(西尾仁左衛門、久作)は安居神社で休息をとっていた信繁(幸村)を討ちました。
忠直隊は大坂夏の陣で豊臣方約3700人を討ち取り、徳川方で最大の戦果を上げました。
大坂の役や日頃の幕府に対する功績が評価されず、官位が従三位参議という比較的低いままなど、忠直は幕府に対する不満を抱きました。
1621(元和7)年、忠直は病気を理由して江戸への参勤を行いませんでした。
1622(元和8)年、正室である勝姫の殺害を企てるなど、乱暴な行動が目立つようになりました。
1623(元和9)年2月、将軍秀忠は乱行が目立つ忠直に対し隠居を命じ、家督は忠直嫡子である光長に継がれました。
忠直は豊後国府内(現大分市)へ流されことになりましたが、その途中、敦賀で出家して一伯と名乗りました。
5月、幽閉場所である豊後国府内藩内の大分郡萩原村に到着し住み始めました。
1623(元和9)年7月27日、家光が3代将軍になりました。
1650(慶安3)年9月10日、松平忠直が亡くなりました。(松平忠直 享年56才) |