毛利勝永は毛利勝信(森壱岐守吉成)の子として生まれました。
姓は「森」でしたが、秀吉の命令により「毛利」に改名したようです。
終わりの出身ですが、毛利良勝(もうり よしかつ)や毛利長秀(もうり ながひで)、森長可(もり ながよし)らとの姻戚関係は不詳です。
1587(天正15)年、秀吉が九州を平定し、この論功行賞で父勝信に豊前国小倉6万石が与えられ、勝永には豊前国の一部の1万石が与えられました。
1600(慶長5)年、関ヶ原合戦の際は西軍に入り、小倉城に籠もって黒田氏を迎え撃ちましたが関ヶ原合戦で西軍が敗北したため領地は没収され、勝永の身柄は加藤清正を経て土佐国の山内一豊に預けられました。
1614(慶長14)年、豊臣秀頼から家里伊賀守(いえさといがのかみ)が豊臣方への加勢を要請された勝永は土佐国から脱出し、大坂城に入りました。
この時、勝永は子の勝家を連れて入城していますが、幸村と共に来た信繁(幸村)と同年代だったと伝えられています。
勝永は真田信繁(幸村)、後藤基次らと共に五人衆と呼ばれました。
大坂夏の陣、勝永は信繁(幸村)・基次と共に道明寺で徳川方を迎え撃つことになりました。
5月6日、勝永は信繁(幸村)と共に道明寺への到着が遅れたため、一足先に道明寺付近に着いていた基次は夜明けと共に徳川方と交戦状態になりましたが援護が無く、基次は被弾し動けなくなり自刃しました。
夜明けに天王寺を出発した毛利隊が道明寺に着いた頃は、すでに後藤隊は敗走していました。
午前11時頃に真田隊・福島隊・渡辺隊・大谷隊などが天王寺に到着し、道明寺方面に向かいましたが、真田隊などが道明寺に着いた頃は後藤基次や薄田兼相が戦した後でした。
5月7日、豊臣方の最前線である天王寺口に陣を置いた勝永は藤堂・井伊・本多・榊原の各隊を相手に奮戦し、本多忠朝や小笠原秀政を討ち取りました。
しかし、信繁(幸村)が討ち死にし、真田隊が壊滅したことに伴い、大坂城に退きました。
豊臣氏滅亡に居合わせたと言われ、秀頼を介錯のは勝永であるという説もあります。
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